劇評講座

2025年5月26日

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■優秀賞■【白狐伝】夏越象栄さん

カテゴリー: 2024

「距離感」と「境界線」。この言葉ほど昨今、その意味と在りようを問い直す必要がある言葉はないのかもしれない。
身近な人間関係から過剰に距離を置いて線を引き、自分の世界にこもる人がいる一方、SNS(交流サイト)で気の合う誰かと、世の中と、つながっていないと不安になる・落ち着かないという人も少なくない。
二つの言葉はどちらも、他者やコミュニティーと関わる上でとても重要な概念で、これらの取り方・捉え方を間違えれば、無用なトラブルや争いを引き起こす。
相手と自分との境界線(違い)を見極め、その上で適切な距離(接し方)を取る――。一言で言えば簡単だが、難しい。2024年5月5日、駿府城公園で上演された、SPACの「白狐伝」はその課題について示唆に富んだ作品だった。
物語は、白狐のコルハ(ムーバー=美加理、スピーカー=宮城聰)の視点を中心に展開する、人間の保名(同=大高浩一、同=若菜大輔)との異類婚姻譚。演出・台本の宮城氏が、昨年上演した「天守物語」の「続編」と述べる通り、同作で天守から脱出して結ばれた富姫たちの「その後」と見ることもできるものだった。
変化の宝玉を持ち、自然の中で狐の女王として暮らす狐と、人間の世で国守として生きる保名。両者は互いに異界の異質な存在で、交わるためにはどちらか、あるいは互いに「境界」を越えなければならない。では、それをどのように表現するのか。
SPAC版白狐伝ではそうしたイメージを、人造の舞台のみならず、会場の駿府城公園の地形も生かし、文字通り広がりと奥行きを持たせながら、視覚化させることに成功していた。
序盤、舞台上でコルハの宝玉を狙う悪右衛門(同=貴島豪、同=吉植荘一郎)に追い回されるコルハは、狐のまま、どこか操り人形めいたぎこちない動きで逃げ回る。その彼女を追う、分身人形の兵士。彼らはコミカルな印象を与える半面、「個」としての境界線があいまいな存在であることを皮肉っているようにも感じられた。
その後登場する保名と、その恋人である葛の葉(ムーバー=美加理、スピーカー=宮城聰)も、舞台上でやりとりが展開する。葛の葉は、直前コルハとは対照的に柔らかな身のこなしで、たおやかな、実に人間らしい女性だ。
続いて、舞台が赤く染まり、後方の並木道の辺りから、悪右衛門率いる敵軍が舞台へ向かって進んでくる。舞台上は保名と葛の葉のいる阿倍野の国であり、観客は保名と葛の葉に同化する。突如として「舞台」に奥行きが生まれることで、舞台の向こう側からやって来る悪右衛門が、外界からの侵略者であることを強烈に印象付けた。
負傷した保名は国を追われ、山野を逃げ惑う。その姿を見たコルハは動揺し、自身が葛の葉に成り代わって保名を支えようと決める。逡巡しながら狐から人へと変わっていく彼女の発する言葉はぎこちなく、ところどころ不自然に疑問形の抑揚が付き、自身の発する言葉自体に確信を持てていない様子だ。「人間の言葉」と「狐の言葉」をおっかなびっくりすり合わせていくようにも見えた。
このくだりは、ムーバーである美加里氏と、スピーカーの宮城氏の2人だからできる芸の妙だろう。この瞬間、コルハは境界線を越えたのだ。
この後、コルハは狐の妖精たちを使い、悪右衛門に復讐する。この時、妖精たちはライト付きの台車を使って舞台上を縦横無尽に駆け回る。視覚的に楽しませるのが主眼だろうが、ここで、兵士や悪右衛門を罠に掛ける際に台車に載せるというのも、「手中に落ちる」という表現にみられるように、「妖精たちのパーソナルスペースに取り込まれ、そのペースにのまれた」ことの比喩と受け止めるのは、深読みがすぎるだろうか。
葛の葉に扮したコルハと出会った保名は、コルハを葛の葉と信じ、千切れた袖を返却する。両者の衣装はシルエットも柄も全く同じだが、前者は銀で、後者は金。観客の目には袖だけが色の違う奇異な服装に映るが、保名は気付かない。
色の違いは、深読みするとコルハの銀が月の色、ひいては獣が跋扈する夜の世界を示し、葛の葉の金は太陽に象徴される、人の生きる昼の世界を暗示しているのではないか。夜を示す衣装の中に1点、金色の袖を付けたコルハは、昼と夜の境界線にいるとも解せるように思う。この袖をコルハに与えたのが、コルハを人にならせしめた保名であることも示唆的だ。
逃げ延びた2人は、やがて子をなし、人として穏やかな生活を送る。この間のコルハは表情豊かで、所作もたおやか。序盤に登場した本物の葛の葉同様、実に人間らしく見える。しかし、その生活は葛の葉の侍女との出会いにより、終止符を打たれる。
子を残し、保名の元を去ろうとするコルハは、人に変化した時とは逆に、たちまち狐へと戻っていく。動きはぎこちなくなり、言葉もたどたどしく、人の所作、人の言葉を奪われていく。発作のようにのたうち回りながら、たおやかな女性の表情から、ロボットのような無表情へと変じていく中、わずかに残る「人らしさ」にしがみつくように筆を走らせる様は、発語の退化とあいまって、痛々しくすらあった。
保名は本物の葛の葉と再会した後、庵に戻り、書き置きを見てコルハを探すが返事はない。子を抱えてその母親を探す保名。すると、舞台の向こう側の並木に照明が灯され、そこにぽつんと立つコルハが出現する。この瞬間、保名は境界を越えることはできずとも、歩み寄ろうとしたように思う。しかし、コルハは動かず、何か言いたげなまま姿を消す。
その後、保名の傍らには葛の葉らしい女性が立ち、コルハの子どもをあやしているところで幕が引かれた。しかし、その女性がコルハなのか、葛の葉なのかは判然としなかった。
異なる「文脈」を持つ異質な存在でも、互いに歩み寄れば、境界を越えて「真心」とでもいうようなものを交わすことができるのではないか。しかしそのために、境界を越える者は、相応の痛みを覚悟しなければならなない。そんなメッセージが込められている作品だと感じた。

文末ではあるが最後に、公開目前に逝去された葉山陽代さんのご冥福をお祈りしたい。