『楢⼭節考』における⾳楽の位置
――俳優とチェロのダイモルフィズムについて
瀬⼾⼭美咲演出の『楢⼭節考』について、上演された舞台と⾳楽の位置関係を探ってみたい。結論を先取りすれば、この舞台は、俳優の群とチェロの独奏がコインの表裏のようにダイモルフィズム(同質⼆像)として成⽴していた、といえる。
ダイモルフィズムとは、同じ化学組成だが、異なる結晶の形が現れる現象などを指す。
加えて本稿では、今村昌平の映画『楢⼭節考』で⾳楽を担った作曲家・池辺晋⼀郎のオーケストラとパイプオルガンのための作品『ダイモルフィズム』を着想の起点としている。この作品はパイプオルガンをオーケストラとみなし、両者を対⽐することで「同質なものの⼆つの像」が舞台上に⽴ち現れることを表現しようと企図された。
瀬⼾⼭版『楢⼭節考』もまさにこの対⽐が⾒て取れる。すなわちオーケストラ=俳優の群、パイプオルガン=チェロという構図だ。それぞれが『楢⼭節考』という物語を表現する「同質」のものとして存在するが、実際に現象として舞台に⽴ち現れてくるのは俳優とチェロという「⼆像」となる。
こうしたある種の⾒⽴てを駆使し、詳しく舞台を⾒ていきたい。まずは瀬⼾⼭の演出の要諦を押さえておこう。瀬⼾⼭は深沢七郎原作の『楢⼭節考』を再構成して上演台本を作り上げ、舞台演出を施した。
『楢⼭節考』の物語はいわゆる「姥捨⼭」「棄⽼伝説」を扱った⼟俗性が強い内容で、現代のわれわれの⽣活からは簡単に想像することが難しい⽣活様式が描かれる。それは姥捨・棄⽼という習俗そのものもだが、瀬⼾⼭が「動物的」と表現する⼈間同⼠の関係性の濃密さ、あるいは粘度の⾼さに由来するところが⼤きい。
こうした⼟俗的で粘度の⾼い物語に対し、瀬⼾⼭は以下のような演出的アプローチを⽤意した。
(1)登場する俳優を3⼈だけに絞る。
(2)感情的な役のセリフより説明的な地の⽂を多くする。
(3)リアリスティックな⾝体表現を抑制する。
これらはいずれも表現を「削ぎ落とす」作業だといえる。この削ぎ落としたアプローチの結果、なにが起きたか。舞台上には、物語の持つ粘度の⾼さとは対極の、とても淡々とした時間が流れることになった。
そして、淡々と物語が展開されるがゆえに、翻って『楢⼭節考』の⾻格そのものがーー楢⼭に棄てられた先⼈の⽩⾻のようにーー舞台上に現出することになった。
リアリズム演劇が物語の世界をリアルな⼿触りでそのまま舞台化するのに対し、瀬⼾⼭のアプローチは『楢⼭節考』の⾻格を顕にし、物語のさまざまな出来事をフラットに提⽰することに主眼が置かれる。このアプローチにより、観客は『楢⼭節考』を第三者の先⼊観なしに⾒て、聞いて、考える機会を得た。
これが瀬⼾⼭演出の要諦と考えられる。そして本稿の趣旨に沿えば、その演出に基づいて上演された3⼈の俳優の群=オーケストラが、ダイモルフィズムにおけるひとつめの「像」となる。
さて、瀬⼾⼭は削ぎ落としたアプローチで『楢⼭節考』を⾻格だけにして観客に提⽰したにもかかわらず、正反対の「付け加える」アプローチとして以下の
演出を施した。
(4)チェロ独奏を上⼿に配し、幕開けからカーテコールまで、ほぼ全編を通して演奏させる。
このチェロは多彩な表現を舞台にもたらした。重厚な低⾳の響きは⼭々を吹き抜ける⾵にも地鳴りにも聴こえ、チェロを裏返してボディを叩く特殊奏法は⼭に住む者の⽣活⾳にも獣の跳梁する⾳にも聴こえた。こうした写実的な描写がある⼀⽅、終盤のクライマックスに当たる姥捨の場⾯ではバッハの無伴奏曲⾵の極めてエモーショナルな演奏で、物語を⽂字通り劇的に盛り上げた。
チェロの独奏は、俳優の群による物語の⾻格を提⽰するアプローチとは異なり、リアリズム演劇に近い粘度の⾼さで物語の⼟俗性を担保していた。この⽴ち位置は、⾻格を提⽰する役割の俳優の群との対⽐で、観客に感情的に物語を理解させる役割を担っていたといえる。
そして、こうした⾳楽の位置は、俳優の群によって演じられる⾻格の表現とはまったく相容れず、別次元の存在として舞台にあった。このチェロの独奏が、ダイモルフィズムにおけるもうひとつの「像」といえる。
ここまでをまとめよう。瀬⼾⼭版『楢⼭節考』は、以下の異なる「⼆つの像」が舞台上に対⽐されることで成⽴していた。
ひとつめの像は、削ぎ落とした演技で物語の⾻格をフラットに提⽰し、観客に物語を先⼊観なしに考えさせる俳優の群。
ふたつめの像は、物語の粘度の⾼さや⼟俗性をそのまま引き受け、物語を写実的・感情的に観客に伝えるチェロの独奏。
そして、これら⼆つの像は『楢⼭節考』という「同質」が根底にあって初めて現出してくる。⾔い換えれば『楢⼭節考』という「同質」が、俳優とチェロという「⼆つの像」を伴って舞台上に対⽐的に顕現していたといえる。
こうした異なる⼆つの像ーーダイモルフィズムが舞台上に⽴ち現れていたのが、瀬⼾⼭版『楢⼭節考』の最⼤の特徴だ。
演劇が、書かれた戯曲のテキストと決定的に違うのは、テキストが舞台として⽴体化される瞬間の快楽にある。とするならば、瀬⼾⼭版『楢⼭節考』はとても刺激的にその⽴体化が⾏われていたのではないだろうか。