劇評講座

2011年4月12日

『ユ メ ミ ル チ カ ラ-REVE DE TAKASE-』(メルラン・ニヤカム振付・演出)

■入選■

「ユメミルチカラ」を取り戻せ!

おおのひろみ

公演が終り、ふと気が付くと、自分の頬ほころんでいて「笑っている」事に気が付いた。その瞬間まぎれもない幸福感に会場全体が包まれていた。後ろの席の女性は感極まって涙さえ見せていた。

こういった舞台には、『よく頑張ったねー、上手だったねー』で終ってしまうモノが少なからず存在する。子供たちの一生懸命さが伝わってきたとしてもだ。

テレビ番組などでも、実に巧みに歌ったり踊ったりする子供たちがしばし登場したりもする。しかしその子供たちから「生きている」感じは伝わってこない。「歌わされている、踊らされている」感がつきまとっているのだ。

オーディションで選ばれた静岡県内の中高生10名のダンサーたちが、90分間舞台の上を縦横無尽に駆け抜け、確かに「生きて」いた。

初心者も含まれていたらしいが、ほとんどは、ダンスやバレエなど「腕に覚えアリ」の子供たちだったように見受けられた。しかし、ニヤカム氏の振付は彼らのそのような経験値をあてにはしているようには見えなかった。個々の身体能力に応じた振付を施し、かつ、稽古の過程に於いて徐々にハードルを上げていき限界以上のモノを引き出したのではないのだろうか。そこに「踊らされている感」が無かった理由があるように思う。

当初のフライヤーには上演予定時間が60分と記載されていた。ところが、公演時には90分近い作品になっていた。稽古を積み上げる中、どんどん要求に応えてくるダンサーたちを前にニヤカム氏も、新たな要素をどんどん加えていったのではないかと睨んでいる。子供たちが輝く瞬間を導き出したニアカム氏の手腕に脱帽するとともに、しかしそれだけでは、単なる「子供たちが一生懸命頑張った舞台」にしかなるまい。プラスアルファの感動を生んだのは、他にどのような要素があったのだろうか?

公演当日の配付資料によると、この公演は仏題で「タカセくんの夢」というのだそうだ。様々な文化と世代の出会いと混じり合いを描き、自然と調和しながら暮らし、お互いのコミュニケーションがとれるような、よりよい世界を夢見ている、ということだそうだ。

この資料を読んだのは、実は舞台を観た後だったのだが、意外にベタな設定だったのだなと、逆に驚いてしまった。

確かに、モノクロの映像だったり、上下逆さまの映像などの前で、黒ずくめのマント、マスクで顔を覆ったダンサーたちなどは、コミュニケーションレスの現実世界を象徴したモノだったのだろう。翻って、後半は映像も衣裳も軽やかでカラフルでユメの世界の実現を描いていたように思う。また、同じく後半に登場した大きな木。切り絵のようなレース編みのような美しい模様の木は、希望の象徴である「バオバブの木」なのだそうである。照明で色とりどりに照らし出されたり、影絵のダンスを映し出したりした。

衣裳は何パターンもあり、ダンサーたちは早着替えで臨んでいた。

素晴らしい舞台装置・仕掛けの数々である。

夢や希望を語るには格好のシチュエーションである。

しかし…この手のテーマのモノにつきまとう胡散臭さ…にいつもうんざりしてしまうのは自分だけではあるまい。夢だの希望だの愛だの平和だの声高に語られれば語られるほど、「青臭いなあ」とか「そんなことアル訳ナイじゃん」などと思ってしまうのだ。

先に書いたが、この舞台が、夢や希望を描いていたと知ったときは少なからず驚いた。というのも、この舞台には「胡散臭さ」をほとんど感じなかったからである。

解の一つは、対立軸に「オトナ達」を持ってこなかったことがあるのではないだろうか。「生きづらい社会を作ったオトナ達」を対立軸にして「正義の子供たち」が世の中を救うというありがちな構図が無かった。舞台にいる子供たちは、コドモではなく、一人一人のダンサーたちであり、コドモでありオトナであった。人間であった。子供は決して純真無垢で正しいイキモノではないのである。ミドルティーンの出演者達は、その表現者として最適であった。

何でも労せずに手に入る環境の中で、子供たちは、夢や希望を失ってしまったという。

理由は様々あろうが、ニヤカム氏は、その閉塞感の理由が、バーチャルな世界にあるのではないかという仮説にたった。

私が子供だった頃より、この国は、ずっと豊かで便利で安全でクリーンな社会を実現してきた。そして、それは様々な感情・体験に「身体」を伴わないという弊害をもたらしてしまった。

そんな大人たちがお膳立てした、安全でクリーンな世の中で、自分のチカラ・身体で何かをつかみ取る事はむずかしい。しかし、この舞台のダンサーたちは、それを成し遂げたようにみえたし、舞台を観た私たちにも、それが可能である事を、思い知らしめた。

しかし、それはニヤカム氏の稀有な演出やSPACの組織力という、完全に守られた環境で成し遂げられたものだ。実は大いなる矛盾を抱えていたのだが、ニヤカム氏は、それすらも見越していたのではないだろうか。してやられた!脱帽。 (了)