劇評講座

2011年4月12日

『令嬢ジュリー』(フレデリック・フィスバック演出、アウグスト・ストリンドベリ作)

カテゴリー: 令嬢ジュリー

■入選■

『令嬢ジュリー』劇評

丹治佳代

フレデリック・フィスバック演出の『令嬢ジュリー』鑑賞は、観劇という行為の枠を大きくはみ出した、ひとつの強烈な体験だった。終演時は心身がはげしく疲労し、出演者たちに拍手を送ることも、ろくにできなかった。懸命に何かに取り組んだ際の疲れを「心地よい疲れ」と言ったりするが、今回感じたのは、そうした疲労とは異なるよりハードな疲労である。ここまでの疲労感・緊張感を私に与えたものは、一体なんだったのだろうか。

観客の精神に緊張感をもたらしたものとしてまず浮かぶのは、舞台装置の存在だ。舞台上には、駅のホームにある待合室のようなガラスの密室が設けられている。洗練されたシステムキッチンと、本来屋外であるはずの竹林が、ひとつの密室として存在しているのだ。上演開始から終了まで、コロスを含めた登場人物たちは、基本的にこの密室内でぶつかり合いを繰り返す。密室が観る者にもたらす圧迫感は大きく、劇の進行とともに密室内には、はけ口を見つけられない登場人物たちの情念が蓄積されていくようだ。観客は、密室内に増し続けるこの圧迫感・閉塞感を受け止めなければならない。

この舞台装置は、戯曲の台詞にも影響を及ぼす。伯爵令嬢のジュリーと、伯爵家の召使であるジャン。この二人の欲望と本音のぶつかり合い、そしてすれ違いが戯曲『令嬢ジュリー』の主だった筋であり、そこに伯爵家の料理番でありジャンの許婚でもあるクリスティンが関わりながら、劇は進んでいく。戯曲のキーワードであり、ジュリーとジャンが取り憑かれているのが、「上昇と下降」という概念だ。何としても社会的に上昇したいジャンと、自らより社会的下位にいる者に戯れに興味を示しつつ、「(社会的な意味であれ精神的な意味であれ)自分は上にいる」という意識に縛られているジュリー。「のぼる」「おちる」「おりていく」など、二人の台詞には、上昇と下降を表現する言葉が随所にあらわれる。しかし、いくら二人が上昇を望んだり下降を呪ったりしても、彼らが身をおくのは上下左右に出口のない密室だ。私たち観客は、彼らが上昇や下降を表現するたびに、彼らが上にも下にも行けず定位置にとどまり続けるしかないことを見せつけられ、彼らの発する言葉に悲愴な影を感じざるを得ない。

登場人物たちを閉じ込め、上昇や下降という概念を無効にしてしまうこの密室を、私たち人間が生きている限り抱き続ける閉塞感のあらわれとみることは、正しくもあるだろうが、安易すぎるように思う。私は、この密室は、閉塞感をあらわすものであると同時に、もうひとつの意味を体現していると考えたい。—この密室は、「対面」や「向き合う」という関係性を私たちに強調して提示しているのではないだろうか。

いま挙げた「対面」そして「向き合う」ということは、今回の『令嬢ジュリー』において大きな意味を持っていた。まず、『令嬢ジュリー』公演のために芸術劇場内に足を踏み入れた観客は、自分自身を含めた場内全体と対面することから、観劇行為を開始せねばならない。というのも、上演前の劇場内は、舞台上の密室—上演前であっても幕で覆われてはいない—が巨大な鏡のような役割をしており、上演を待つ私たち観客を映し出していたからだ。観劇前に自分と対面させられるという体験のインパクトは強く、上演中何度か、「今は見えてこそいないが、この舞台は私たちを映し出しているのだ」という思いが頭をよぎる。また、ジュリーとジャン、ジャンとクリスティンが、これから先のこと—これから先、自分(たち)はいったいどうしたらいいのか—について対話をするとき、彼らは非常に印象的な「対面」をする。彼らは、密室内の四隅のうち対角線上で向き合う地点に立ち、ありったけの大声で叫びながら、未来についての言葉を互いに交わすのだ。近づいて小声で囁くこともできるのにそうせず、「距離をとって大声で叫ぶ」という、もっとも労力を要する方法で自分の言葉を相手に伝えようとするこの対面のシーンは、俳優たちの熱演もあり、見るものの胸を引きちぎるような痛みを帯びていた。

そして、こうした必死の対面を行なう登場人物たちを包み込むかたちで舞台には密室が存在し、この密室が私たち観客と対面していた。密室という強固な舞台装置により、舞台上で観客と向き合っている演劇空間の輪郭が、はっきりと浮かび上がる。ジュリー、ジャン、クリスティンという存在やそれぞれの関係性が個々の細胞となり、舞台上の密室という大きな存在を作り出す。そして私たち観客は、劇場内でこの密室と対面し、ぶつかり合ったのだ。

本評冒頭で私は、観劇後にはげしい疲労を感じたことに触れたが、それは、濃密な演劇空間と正面から向き合ったことに因るものなのだろう。本公演の観客となったことを語るとき、傍観のニュアンスのある「演劇を見た」という表現はためらわれ、「演劇と向き合った」という言い方こそがふさわしい。『令嬢ジュリー』においては、俳優も、観客も、演劇空間そのものも、まさに当事者であった。

今回の公演を「面白かったか」と聞かれてもすんなりと答えることはできないし、人に勧めたいかどうかも、容易には判断できない。しかし、私にとって『令嬢ジュリー』と対面したことで強烈な当事者感覚を得たことは稀有な体験で、観劇を終え数日経ったいま、終演後に劇場内でおくることができなかった拍手を、盛大に打ち鳴らしたい気持でいっぱいである。(10月2日観劇)