劇評講座

2011年6月24日

『マルグリット・デュラスの「苦悩」』(パトリス・シェロー演出、マルグリット・デュラス作)

■準入選■

手繰り寄せる希望 — マルグリット・デュラスの「苦悩」

柴田隆子

楕円堂の高い天井が、舞台を覆う薄闇のため更に高く感じる。舞台上手にある机に向かい、女が後ろ向きで椅子に座っている。板付きから始まるこの簡素な舞台は、一人芝居を演じるドミニク・ブランが「ノマド的」と呼ぶように、およそ世界中どこにでもある机と椅子が唯一の舞台装置で、文字通り、モリエール最優秀女優賞をとった彼女の演技が舞台を支えるのだ。リーディングから始まったというこの舞台のコンセプトは、作品に描かれている出来事の再現ではなく、作品そのものを空間的に立ち上げることである。それゆえ、舞台は原作者マルグリット・デュラスの混沌とした記憶のように薄暗くどこかあいまいで、その中にあってブランの身体が、記憶の底から手繰り寄せるように言葉と身振りを紡ぎだしていく。

マルグリット・デュラスの自伝的な作品である『苦悩』は、第二次世界大戦時にドイツへのレジスタンス活動で捕らえられたユダヤ人の夫を待つ日々と、強制収容所からの奇跡といえる彼の生還後を描いたものである。原作の冒頭にあるように、ブランは数冊のノートを手に取り、その筆跡を自分のものと認めながらも、その内容はとても自分が書いたとは思えないと語りだすところから始まる。フランス語を解さない筆者にとって、光量の乏しい中、短い間隔で切り替わる情報量の多い字幕を解読しつつ、彼女の抑えた声と微細な身振りを追うのは、まさにカオス的な記憶の中から何かをつかみ出そうとする作業に似ている。

記憶は多くの場合、客観的に実体として存在しているものではなく、混沌とした断片的な中からひとつの「記憶」として形成されていくものである。デュラスは想像を絶する「苦悩」の中から、記憶を手繰り寄せ、ロベール・Lの生還という「作品」を作り出した。しかしこの舞台で、カオス的に散乱するデュラスの言葉の海の中で、ブランが呼び覚ますのは、デュラスの感情の記憶である。前半、待つことに苛立ち憔悴していくデュラス/ブランの感情は、りんごを剥き小さく切るようなほんの日常的な身振りからでもはっきりと伝わってくる。デュラスの言葉を媒介しながら、さらにブランはそこにいただろう複数の人物をも同時に形象化する。ぼんやりとした薄闇の中、複数の人物と対話する姿がその声から立ち現れてくるが、彼女の目は内面の混沌を見つめたままで、その姿はどこか遠いところにあるようである。

この霧のかかった状況が晴れてくるのは、強制収容所に収監されていた夫ロベール・Lの生存がわかった場面からである。それまでデュラスの内面世界に向き合わされてきた観客は、いかに生きて彼を帰還させるか、どうやって彼を生の世界に取り戻すかという現実の問題に彼女の関心が移ったことで、解放される。ロベールがいかにひどい状態であったかは、「泡だつ緑色の排泄物」という表現に象徴される。待つことが戦いであった前半に対し、屍の中に横たわる屍同然の生、それを大事に持ち帰り生の側に引き戻すのが後半の戦いである。字幕に現れるデュラスの激しい言葉遣いとは裏腹に、ブランは抑制のきいた動きで、一歩一歩手堅く彼を生へと導いていく。食べることに耐えられないほど弱った体、それでも食べなければ確実に死が待っている。弱った体を支えるために敷き詰められたクッション、1日に何度にも分けスプーンで与えられる食事、むせながらも飲み込む姿。最初に夫の変わり果てた姿を前にしたショックから立ち直った彼女の周りには、一緒に心配し支援する友人たちの姿が見える。もちろん、いるはずのない彼らの姿を浮かび上がらせるのは、ブランの声と演技であり、特にその視線である。前半のカオス的な内面を見続けていた彼女の目は、後半はっきりと夫の姿を、一緒に支援してくれる友人らの姿を捉え始める。ロベールの生還はデュラス自身の生還でもあるのだ。ロベールが「お腹がすいた」という言葉で生への帰還を果たすとき、デュラスもまた「苦悩」の日々から解放される。舞台奥に続く鏡の先へと消える彼女の姿は、戦いを終え、別の人生へと向かう旅立ちに見え、ロベールとの離別をほのめかしている。

演出ノートにパトリス・シェローが書いているように、『苦悩』は戦争、強制収容所という「想像を絶する」時代を背景として、その時代でなければ成立しなかったであろう出来事が描かれた「恐るべきテクスト」である。そこで語られる言葉はどれもひどく重く、その内容、背景とも我々の日常世界からはあまりにもかけ離れており、彼のいうような「つつましい形」で提示されなければ、心に届いてこなかったであろうテクストである。これだけの内容を媒介しながらも、それに拮抗しうるドミニク・ブランの身体性があって初めて成立した舞台なのだと、座って見ているだけで疲労困憊する中で気づいたのだった。「狂おしい希望」までもが、「すでに忘れられてしまったあの時代」とともに忘れられてしまったかに見える今日、「希望」に至るまでの「苦悩」を理解可能な姿で描き出してくれた彼女に感謝したい。

(静岡県舞台芸術公園屋内ホール「楕円堂」 2011年3月4日観劇)