劇評講座

2011年9月1日

『真夏の夜の夢』(宮城聰演出、シェイクスピア原作、野田秀樹潤色)

カテゴリー: 真夏の夜の夢

■依頼劇評■

真夏の夜の夢

井出聖喜

序幕(プロローグ)

●総評

野田秀樹がシェイクスピアの原戯曲から取り去ったものと付け加えたものの意味を的確に読み込み、野田戯曲のもつ力を鮮明に浮かび上がらせた、心に残る上演だった。野田秀樹自身の演出による舞台作品とは全く別物のような印象だが、人間や日本社会の見えない部分を見据える冷徹なまなざしを持った最近の作品につながる、野田の透徹した人間観がくっきりと見えてくる舞台だった。

第一幕

●野田秀樹の作劇法

野田秀樹の作風は「夢の遊眠社」のころからするとずいぶん変わった。当初は、大声を上げて遊園地を駆け回る子どもの喧噪と夢想とでも言うべき世界、芝居では間が大切だなどという保守的な演劇人のしたり顔にそっぽを向いて、速射砲のように観客の耳を撃つ台詞の応酬と体の中に発条が装填されているのではないかと思われるような役者たちのめまぐるしい動きの合間から突如立ち上る鮮烈な叙情性が身上であったが、昨今は文明批評であったり日本人論であったり、歴史の検証であったりといったように、演劇による世界解釈といった作風を強めてきている。

多くの演出家・劇作家がともすれば自己模倣に陥りがちであることを思えば、彼が常に革新的であることはすばらしいことだ。

しかし、変わらない点もある。それは、地口や駄洒落といった、それ自体では座興程度のものでしかない言葉遊びが、一種、触媒の役割を果たして、それまでは全く無関係だった二つ、あるいはそれ以上の世界が突然出会い、お互いに侵食し合い、そこに新たな意味が付与され、この硬質でゆるぎないと思われた現実世界が溶解し、その中から多層的なイメージ、暗喩と寓意に満ちた仮想世界が立ち昇り、観客は、この世界を照らし出す全く新しい光源を見ることになるという作劇法だ。

この『真夏の夜の夢』もそうした野田演劇の本質をよく伝える作品の一つである。

●多層的なドラマ『夏の夜の夢』

『夏の夜の夢』は、『ハムレット』と並んで最も多く上演されるシェイクスピア作品であろう。同じ戯曲を基にしながらも、演出によって作品世界が全く異なってみえるというのは、どの戯曲においても言えることかもしれないが、特に『夏の夜の夢』はその演出の多彩さ、自由度において群を抜いているだろう。と同時に、どんな演出によるとしても、見終わった後の印象には一つの言葉でくくりきれない多様なものがあるように思う。オーベロンとタイテーニアを中心とした妖精の世界の住人たちの、子供のように無邪気で自由な世界、ボトムを中心として芝居づくりに精を出す職人たちのナンセンスで闊達で放埒な世界、そして恋心の気まぐれに翻弄され続ける若い恋人達の困惑と幸福、それぞれの世界がそれぞれにその存在を主張しており、その鮮やかな色彩の混交は、すべてを見届けてきた観客の心にちょっと複雑な味わいを残すことになる。もちろん最後はパックの口上による祝祭的気分で締めくくられるとしても、だ。

●純化された野田版『真夏の夜の夢』

しかし、野田秀樹潤色(というより改作と言ってもいいかもしれない)、宮城聰演出の本作は、見終わった後の印象が実に鮮明で純化されている。これは野田秀樹の脚本がそのように書かれているということでもあるし、それをくっきりと浮かび上がらせようとした演出の意図によるものでもあろう。

では、その「鮮明で純化され」た印象とはどのようなものか。

それについて触れるには、シェイクスピアの原戯曲と野田版戯曲との違いを明らかにしておかなければならない。

ただ、その場合シーシュースとヒポリタが登場しないとか、最終幕の劇中劇が完全にカットされているといった点は大きな問題ではない。(正確に言えば、終幕の劇中劇のカットは「大きな問題ではない」と言うよりも必然である。なぜなら、本作では劇中劇は一種の入れ子構造になっていて、「知られざる森」の中で展開される人間たちや妖精たちの一連のドラマの進行自体がそのまま劇中劇を作り上げていくことになるからだ。)

野田版『真夏の夜の夢』の最大のポイントは「そぼろ」と「メフィストフェレス」(以下メフィスト)という二つの役の造形にある。

●そぼろ

そぼろは原戯曲のヘレナに当たり、恋人の心が自分の親友に向いているという状況は共通である。しかし、そぼろがヘレナと違っているのは、彼女が自分の心の中にある、止みがたい嫉妬心や憎悪といったものに常に目を向け続けているという点にある。

一方、メフィストはもちろん原戯曲には登場しない。本作にはパックも登場はするが、パックの活躍ぶりやその印象は原戯曲ほど鮮やかではない。劇中の彼の台詞をもじって言えば、彼はメフィストにパックリとパクられてしまったことになる。

そぼろとメフィストは別人であるが、二人の拠って立つところには共通のものがある。それは彼らが善意や美徳を生きるのではなく、むしろそれらによって追いやられ、隠されてしまった、しかし、どの人間の中にも確実に潜んでいる負の感情を背負い込んでいるという点だ。

そぼろは、自分の愛するデミが親友のときたまごと近々結婚する運びになるということに苦しんでいる。その結婚は第一にはときたまごの父、老舗の割烹料理屋ハナキンの主人の希望によるものである。第二には、友人ライと共に自分が板前として働いているハナキンの主人の寵愛を得て、その娘婿に収まりたいというデミの野心による。しかし、ときたまごはライと相愛の仲にあり、この結婚は簡単に調うものでもなさそうな状況にある。

この辺り──若い恋人達の人間模様──は原戯曲と基本的に同じであるし、惚れ薬をかける相手をまちがえたことから生じる恋の大騒動とその顛末も大筋では変わらない。

しかし、そぼろの心は暗く沈み、嫉妬心は抑え難く沸き起こってくる。その思いに乗じて現れるのがメフィストなのだ。

●メフィスト

原戯曲の『夏の夜の夢』では妖精パックの早トチリから恋人同士の取り違えドラマが始まることになるが、野田版『真夏の夜の夢』はそぼろを始めとした人間の中の嫉妬だとか憎悪、それら言葉にされることなく呑み込まれた思いと、それを巧みに操るメフィストの「悪意」、あらゆる善なるもの、美なるものへの、彼の屈折した憎悪とが、もつれにもつれ、こじれにこじれた愛のドラマを生み出していくことになる。

そぼろは、デミやライが突然自分への愛を告白することになるという、あり得ない展開を、当初は、彼らが自分をからかい、なぶりものにしているのだという被害者意識によってこそ理解したとしても、自分の呑み込まれた言葉が、あえて言えば無意識界に追いやられ、抑圧された思いが招き寄せたものとはつゆほども思わぬが、ドラマの大詰め近くでそのことに思い致すことになる。

「この悪い夢は、あたしの呑み込んだコトバがつくりだした願いだったのかもしれない。」 「あなた(メフィスト)をここへ呼んだのは、あたしだったのね。」

宮城聰はドラマの冒頭近い部分、メフィストの登場場面で、それを観客に強く印象付ける演出を施している。メフィストは、そぼろが消えた瞬間その消えた場所からフワッと現れるのである。これは上掲のそぼろの台詞と照応してはいるのだが、メフィストはそぼろの心の中にこそ棲んでいたとも解釈できるところである。

●知られざる森

メフィストは、脳天気なオーベロンやタイテーニア、パックまでも騙して人間たちの間に不幸と憎悪をまき散らそうとする。妖精たちは、オーベロン・タイテーニアも含めて「知られざる森」の住人である。「知られざる森」とは、劇中のパックの言葉によれば「ひとたびこの森からでていくと、この森のできごとを忘れてしまう」、「ここには人が置き忘れたいろいろな知られざることが富士の山ほどある」──そういう森である。(これを筆者流に勝手に換言するなら、忘れられた童心の住み処であるし、深層心理の森であるということになる。)

その森で「出入り業者」たちが演じるのは、ピーターパンの登場する『不思議の国のアリス』の物語だ。その意味では「知られざる森」は「ネバーランド」でもあり、アリスの迷い込んだ「ワンダーランド」でもあるのだろう。

その森の本当の姿はだれにも知られず、妖精たちの姿も見えず、その声は人間には鳥のさえずりとしか聞こえないのだ。かつてはだれもがそこに棲んでいたはずなのに今ではどうしても思い出せない、我々の現実から「聖別」された世界──メフィストもその森のはずれに棲んでいるのかもしれない。そして、彼は、他の妖精たちを横目でみつめながら独り寂しくいじけている子どもだったのかもしれない。

●メフィスト対妖精たち・逆隠れみの

オーベロンたちを騙したメフィストは、目に見えるものしか信じない人間たちを操り、彼らに憎悪と不幸を植え付けるために、それを着ると見えなかったものが見えるようになるという「逆隠れみの」を着て、人間たちの前にその姿を現す。

一方、メフィストのたくらみに気づいたオーベロンは妖精たちに号令を発し、同様に「逆隠れみの」を着て人間たちの前にその姿をさらして、彼らがメフィストに騙されていることを知らせようとする。

ここでも奸智を働かせたメフィストは、妖精たちの持参した「逆隠れみの」を自分の下に集めて燃やしてしまうのだが、その灰をかぶることで、妖精たちは人間たちに見えるようになる。そして、すべては「森の裁きの場」に持ち込まれることになるのだが、その時、メフィストは森に火を放つ。

幕間・口上

さて、私は私の一番言いたいことをまだ述べていない。人間の中に善なる部分と悪の部分とを認め、その悪の部分が本作のドラマを形成しているのだって? とんでもない。それでは全く不十分だ。ここからが、この批評の冒頭に述べた「鮮明で純化され」た本作の印象に関する私の本当の物言いだ。

第二幕

●再びそぼろ、見えないものを見つめる者

自分は真夏の夜の森に迷い込んだことがあった、そこで不思議なことが起こったというそぼろの回想からこの舞台は始まる。自分の体験した不思議なできごとは「気のせい」ではなく、「木の精」、森の妖精たちのしわざだと彼女は言う。

それは、彼女が目に見えるものしか信じない人間から一歩抜きん出たことを示している。それであれば、彼女は自分の心の中にも自分でそれと気づかないものがあり、それが自分を動かしているのかもしれないということに気づいたことになり、そこを見つめる知恵と力を得たことになる。つまりはすべては自分の「気のせい」であることを自覚した人間だということになる。

●再びメフィスト、悪の悲しみの水底に碇を下ろす者

メフィストが真に体現しているのは、実は悪意や憎悪などではなく、憎しみや嫉妬に心を灼かずにはいられぬ者の悲しみ、人々が忌避するそれら負の感情を引き受ける役割を演じなければならぬ者の苦しみでこそある、と私は思う。その意味で彼は、悪魔というよりは、神の意志によって裏切りの道を生きることを運命づけられ、苦悩の内に自ら命を絶つことになる、あのイスカリオテのユダの直系の子孫であるのだ。

そして、大詰め。呑み込んだ言葉をそぼろが語る場面でメフィストはなにやら書き物をしている。それは、そぼろの言葉を記録しているようでもあるが、この物語の演出家であったはずのメフィストが実は書き手であり作者でもあったと訴えているようにも思われる。メフィストはこの真夏の夜の夢を見てきたのがお前だとそぼろに言うが、そぼろの中にメフィストが棲み、メフィストがそぼろの分身であったとするなら、私のこのとらえ方はあながち誤読とも言えないような気がする。

この「気のせい」に乗じて更に言うならば、演出家宮城は人間の悪の悲しみの水底に碇を下ろす者だけが物語の紡ぎ手たり得るというメッセージを発しているようにも思われるのだ。

●浄化

人間達の憎悪とそれを操るメフィストによって知られざる森は燃え上がった。しかし、その森を包み込もうとする紅蓮の炎は、愛に飢え、憎悪によって生きてきた当のメフィストの目からあふれる涙の雨によって鎮められる。一方、その雨は、妖精たちがその身体に纏っていた「逆隠れみの」の灰を洗い流し、彼らの姿を消していくことにもなる。

消えていくのはメフィストも、そして彼の憎悪と悲しみも、だ。この雨はすべてを浄化する。

見えていたものが消えていき、見えなかったものが顕れてくる。見えなくてもいいものは消えればいいし、見えなくなって残るものもある。魂の浄化とはそういうことだ。

終幕(エピローグ)

●見えなくなって残ったもの

舞台は終わった。私には見えざる森もそこの住人たちもそこに迷い込んだ若者たちや「出入業者」たちも見えなくなった。だが、見えなくなって残ったものがある。そぼろとメフィストの歪んだ寂しい笑顔だ。私の言う「鮮明で純化され」た印象とはまさにそれだ。そして、この舞台を通して演出家が観客の心に残したかったのもそれだと、私は信じている。

付・舞台美術①

それまでうっすらと見えていたものが、メフィストの「人間てのはどうしてわざわざ歩くのかね。富士の山をここへ呼びつけりゃいいものを。」の台詞によって、富士の山の麓の知られざる森が浮かび上がってくる。何本もの樹木=金属のポールが林立し、それらの多くは、あたかも枝のように一定の間隔を置いて水平方向に突き出た足場を持っている。その根本辺り、何か所かに、切り捨てられた根っこのようにも、あるいは貝殻、若しくは甲殻類のようにも思われる物体が置かれている。また、下手端には、同様に勢いよく伸びた根っこのようにも、あるいは蛸の足、海藻のようにも見えるものがいくつも集まり、絡み合って樹木のようにそびえ立っているのが見える。その上手寄りにも樹木らしきものがあるが、それは、頭と言わず身体と言わず、同様に蛸の足のようなものを無数に生やして高所に佇立しているオーベロンと一体化している。高いところには妖精たち、木の精や夏の精たちが見え隠れしている。

この、森のようにも海の中のようにも見える舞台のしつらえは、山の幸、海の幸が供されることになる割烹料理屋ハナキンの縁語だろうが、これを解読するもう一つのキーワードは富士の樹海だ。「樹海」という言葉の詩的なイメージがこの舞台造形の土台にあることはまちがいないと思われる。だとすれば、樹海が心霊スポットでもあるように、この知られざる森はやはり人の心の深い森であり、深淵であるのだ。

舞台美術②

最初は「あれっ」と思い、やがて「へえーっ、そうか」と気づいたことだが、この知られざる森と妖精たちの衣装はすべて新聞紙で作られていたのだった。

なぜ、新聞紙なのか。まさか国を挙げての節約ムードにSPACも乗っかろうとしたのではあるまい。

新聞というのは見えているものしか掲載しない。あいまいなものや見えにくいものは、少なくともそのままでは新聞に登場することはない。その意味では知られざる森の対極に位置するものだろう。我々の現実、日常の世界地図を形成しているものが、その奥底にある夢だとか深層心理だとかの見えざる世界を形作るための材料になっているというのは、皮肉でもあるかもしれないが、まっとうな真実だとも言えるかもしれない。

しかし、その造形の豊かさ、見事さを目の当たりにすれば、そうした後付けの理屈などどうでもいいとさえ思えてしまう。タイテーニアの衣装の華やかさ、オーベロンや蛸になった福助の滑稽でグロテスクな風体、森=樹海の神秘な造形性、それらすべてが新聞紙だけでできているのだ。製作の苦労いかばかりと思いつつ、一体どこからこんなあっと驚くような発想が出てきたものかと、その秀逸なアイデアには舌を巻くばかりだ。