劇評講座

2011年9月1日

『ヒロシマ・モナムール』(クリスティーヌ・ルタイユール演出、マルグリット・デュラス作)

■依頼劇評■

重層化するテクスト、声、記憶
——クリスティーヌ・ルタイユール演出『ヒロシマ・モナムール』ーー

堀切克洋

暗闇に能管の音が響く。空気を破裂させるような高音の笛の音ではなく、どちらかというと親密な印象を与える音である。わたしたちの眼前には次第に不定形のフォルムが見えはじめる。やがて、その曖昧な形状のフォルムは、重なり合った二人の男女の裸体であることがわかる。しかし、それが「君はヒロシマで何も見なかった」——「いいえ、ヒロシマですべてを見たわ」という言葉の発話者であるかどうかを理解するには、もう少しの時間がかかる。その台詞がマイクロフォン、そして舞台上方に設置されたスピーカーを通じて発せられ、客席を包み込むような空間がつくられているからである。

●『ヒロシマ・モナムール』というテクスト

一般的に『二十四時間の情事』という日本語題の下で知られている『ヒロシマ・モナムール』というテクストは、アラン・レネ(1922-)による日仏合作の長編映画作品(1959年公開)のために、マルグリット・デュラス(1914-1996)がフランスにとどまりながら製作した「シナリオおよびダイアローグ」である(邦訳『ヒロシマ私の恋人』、清岡卓行訳、ちくま文庫、1990年)。日仏合作の「平和のための映画」を撮りに広島に滞在している30代のフランス人女性と、技術者でありかつ政治的活動を行ってもいる40才前後の(フランス語が堪能な)日本人男性。物語はこのふたりが出会い、そして別れるまでの「二十四時間」を描く。

映画を見たことがある方、あるいはシナリオを読んだことがある方ならばご存知の通り、ヒロシマという人類にとっての苛酷な経験を「書く」にあたって、デュラスが考案した方法は広島という場においてヒロシマという日本人の男を登場させることであった。さらに、この男と出会う女は、かつてヌヴェールというフランスの田舎町でドイツ兵と恋に落ちたことによって、地下室に軟禁され、村八分にされたという過去を持つ。その抑圧された記憶を呼び覚ますのが、ヒロシマという〈都市=男〉であり、それゆえに、この物語を通じて女はヌヴェールという都市の記憶を代表してみせるのである。

しかし、である。映画を見たことがある方も、そうでない方も、『ヒロシマ・モナムール』というテクストを一度手にとっていただきたい。この書物を開けば、デュラスのテクストがその筋の明解さ(二人の男女が出会って別れるだけの話)とは裏腹に、どれほどに重層的に書かれているかが理解されることだろう。とりわけ、ヌヴェールに関しては、映画で「ヌヴェール」を演じたエマニュエル・リヴァ(1927-)が——ユダヤ人の母親を持つことを示唆しつつ——語ったことの覚書きとして、一連のテクストがシナリオに付録されており、映画監督に対する指示や映画には収められていない場面も含めて、膨大な周辺的テクストが収められている。

このことに加えて、少なくともデュラスという作家にとって、ヒロシマという経験はその端緒においてすでに強制収容所という経験と深く結びついていたことも確認しておこう。折しも邦訳が刊行されたデュラスの『戦争ノート』(田中倫郎訳、河出書房新社、2008年)を参照すれば、政治犯として逮捕され、ブーヘンヴァルト強制収容所へと送られた夫、ロベール・アンテルム(1917-1990)の生還が、デュラスの「ユダヤ人化願望」に拍車をかけたという事実から、デュラスの経験がフランス人女性と日本人男性と重なり合う筋を持つ『ヒロシマ・モナムール』のドラマトゥルギーに書き込まれていると考えることも十分に可能だろう。

しかしながら、『ヒロシマ・モナムール』における男女の会話は、ほとんどが短台詞から構成されており、分量の面から言えば、周辺的なテクスト(筋書き、ト書き、付録など)とは好対照をなしている。つまり、男の問いかけと女の受け答え、あるいはその逆のやり取りからは、無駄な言葉が排除されている。そのため、演出家は基本的に、この膨大な量の周辺情報を俳優たちの短い発話に託さなければならない。そこで演出家はどのような方法をとったか? 「君はヒロシマで何も見なかった」——「いいえ、ヒロシマですべてを見たわ」という冒頭の台詞で示唆したように、この演出において決定的に重要な役割を果たしていたのは、「台詞(音声)の聞こえ方」である。

●いったい、これは誰の声なのか?

冒頭の場面は、わたしの記憶が正しければ、二人の台詞は舞台上方のスピーカーを通して観客に届けられていた。これにより、映画の冒頭のシーン(銀色にきらめく汗をかいた肉体の交わり合い)とは、同じ描写でありながらまったく別の印象を与えることに成功していたのである。ヴァレリー・ラングと太田宏の動きはけっして生々しくはない、どちらかというとコンテンポラリー・ダンスのような、抽象的なフォルムを薄明かりのなかで幻影的に見せる(舞台の観客は俳優の裸体を見ることにほとんど驚きを示さない)。二人の身体が表象している時間は〈1958年〉ではなく、同時代のどこかであるように思われる。

スピーカーから聞こえる台詞は、彼らが「発している声」ではなく、彼らに「発せられる声」のようにも聞こえる。かくして、わたしたちは「現代の男女の姿」に、〈1958年〉の——わたしたちが遅かれ早かれ、映画や書物を通じて夢想することになる——男女の風景を重ね合わせることになる。それは、原爆の風景から切り放された普遍的な、あるいはきわめて凡庸な男女の恋模様である。しかし明らかに、デュラスのテクストは映画とはまったく異なる響きを放つ。当然のことながら、そこには映画で使うことのできる技術(およびその限界)が存在しないからである。原作における時間や空間の統一性(ラシーヌ劇のよう!)は、いとも簡単に撹乱させられることになる。

たとえば、スピーカーを使わない二人の会話がほとんど普通の演劇(恋物語)を思わせると思えば、今度はそのスピーカーから(おそらく現在の)広島の音風景が流され、あるいは〈1958年〉の広島の風景が舞台全体に映写され、時間と空間はデュラスのテクストに応えるかのように、たえず重層化されてゆく。感情の吐露としての独白/小声で話す二人だけの親密な会話/他人にも聞こえる公共的な会話……という具合に、あれほどまでに単純だったはずの二人の会話は、まるで無限のマトリョーシカのように、発話の仕方や音声の届け方を通じて、時間と空間を往来するように観客の想像力を仕向けているのである。

ところで、映画版『ヒロシマ・モナムール』は、映像というメディアが対象のフェティッシュ化を得意としていることを示すように、「へんてこな場面」が何度か登場する。たとえば、二人が愛撫しているシーンの後ろではチャルメラの音が、フランス語で書かれたプラカードを掲げてデモ行進する場面ではきわめて大衆的な音楽が、リヴァが苦悶のヌヴェール時代を回顧する場面ではゲコゲコという蛙の鳴き声と歌謡曲が流れ続けているのである。これらは、急須からコーヒーが注がれる場面(この場面で女は浴衣を着ている!)や喫茶店の名称が「どーむ」であることにもまして、実に微笑を誘う。

このような映画的なユーモアの代わりに、舞台版『ヒロシマ・モナムール』では、日本の唱歌がふたつほど使用されている。ひとつは「椰子の実」(作詞=島崎藤村、作曲=大中寅二)という1936年につくられた唄で、劇中に太田が何度か口ずさむ——「名も知らぬ/遠き島より/流れ寄る/椰子の実一つ」。椰子の実というモノを叙情的に詠んだ歌詞は、どこか懐かしいが悲しげな印象を与える。もうひとつは「わたしの城下町」(作詞:安井かずみ/作曲:平尾昌晃/編曲:森岡賢一郎)という小柳ルミ子の1971年の唄である。このような歌謡曲の使用はけっして珍しくはないが、舞台を異化するには効果的な手法である。

●重層化してゆく記憶

しかしながら、エロティック(官能的)であり、ポエティック(詩的)であり、ポリティック(政治的)でもある『ヒロシマ・モナムール』というテクストの重層性は、上記の演出によってばかりではなく、観客の側からも積極的に行われもする。もちろん、これはあらゆる演劇作品に当てはまる。つまり、観客の仕事とは「演出家の意図」を言い当てることではなく、ある程度は自由な想像力をもって、演出家の投げかけたメッセージ(一義的な意図ではなく、問いかけであったり、挑発であったりする)に応えることなのである。したがって、わたしたちは演出家の意図をふまえたうえで、作品をいろんな文脈に接続するという楽しみ方をもってよい。

これまでに述べてきた映画版『ヒロシマ・モナムール』は、ルタイユール版を楽しむうえでの最も基本的な材料である。このほかにも、わたしたちはやはり静岡で——東北地方を大地震が襲うちょうど1週間前の日に——同じデュラスの『苦悩』という舞台に立ち会っているのだし、そこでのドミニク・ブランの繊細な演技は、今回のヴァレリー・ラングの艶やかでありながら少し物憂げな雰囲気と合わせて、デュラスの世界観を豊かなものにしている。また、昨年のほぼ同じ時期には、あの「楕円堂」という濃密な劇場(この場所には「劇場」という用語はふさわしくない)でクロード・レジ演出による『彼方へ 海の讃歌』を体感するという肉体的幸運に恵まれている。

また、演出家クリスティーヌ・ルタイユール自身は、この『ヒロシマ・モナムール』という作品を「人間の欲望」をめぐる三部作として製作している。第一作は18世紀フランスの小説家マルキ・ド・サド(1740-1814)の『閨房の哲学、あるいはサド侯爵の不道徳家庭教師たち』(2007年)、第二作は19世紀オーストリアの小説家ザッハー=マゾッホ(1836-1895)の『毛皮のヴィーナス、あるいは超官能者の告白』(2008年)である。わたしたちはいますぐにこれらの舞台を観ることは叶わないが、しかし書物を通して、この演出家がどのように「欲望の問題」を抽出したのか、想像してみるのも楽しいだろう。

そして言うまでもなく、3月11日に太平洋沖を襲った大地震、津波、そして原発の問題である。原発問題は、政治史的視点からも、経済学的観点からも論じることは可能だが、最終的に保証されていない安全を安全であると言い張ってきた以上、結局のところは「欲望」の産物であったのではないだろうか? そうであるとすれば、わたしたちが検証すべきは、間違った論理や不道徳そのものではなく、間違った論理を正しいと断言し、不道徳を貫き通すことに駆り立てる「欲望」なのではあるまいか? ここで、再び重層的なデュラスのテクストに立ち戻ってみたい。

彼女は自分が恋愛では死なないことを知っている。彼女は人生の途中で、恋愛によって、死ぬためのすばらしい機会に出会った。彼女はヌヴェールで死ななかった。それ以来というものは、ヒロシマでこの日本人の男性と出会う日まで、彼女は、自分の運命に決着をつけるただ一つのチャンスを猶予されたものの抱く《魂の漠然とした悲しみ》を、自分の中にしまって自分とともにひきずっている。〔……〕彼女はその日本人の男性に——ヒロシマで——彼女のこの世でいちばん貴重なもの、彼女の生々しい現実の表現そのもの、ヌヴェールにおけるその恋人の死からの彼女の生き残りを、引き渡すのである(『ヒロシマ私の恋人』、199–201頁、傍点はゴチック体としてある)。

デュラスによる決定的に重要な指摘は、劇中の女は「すでに死んでいるにもかかわらず、死ぬことができない」ということである。それは一方で、語り継がれる悪い過去は、さまざまな場所に記憶の痕跡をばらまきながら、けっして忘られることがない、あるいは忘れてはならないという「倫理」であるが、しかし同時に、そのような過去を引き起こした悪もまた殲滅されることのないという「絶望」でもある。まさしく「幽霊」のロジック。つまり、一方では死者を弔うという倫理を保持しながら、他方では死者を畏怖するという恐怖が表裏一体の関係をなしている。デュラスのテクストは、このように欲望の二面性を認めながら、その「悪」を内側から見つめるための仕掛けなのである。

●むすびに

最後に、この公演の実現にあたっては、全編フランス語の台詞を演じきった太田宏の努力に讃辞を送らねばならない。その演技はまだ「魅せる」という段階まではいないように思われる(端的に言えば、目の前の俳優の仕事にきちんと応答するという作業が十分には見えない)が、どちらかというと目の前にあるものに全力でぶつかっていく若々しさが、岡田英次の怜悧かつ肉感的な演技とはまた違った印象を与えていたことは興味深かったとも言える。太田はこれまでにも青年団の国際交流プロジェクトを通じて、ロラン・グッドマン演出『別れの唄』、アルノー・ムニエ演出『鳥の飛ぶ高さ』に出演しているが、今後の活躍が期待される。フランス語だけでなく、演技にも磨きをかけてもらいたい。

また、忘れてはならないのは、SPAC側の技術スタッフの活躍である。今回の上演に際しては、地震の影響もあってのことだろう、フランス側の技術スタッフの来日が見送られ、急遽SPACが技術スタッフを用意してフランスに派遣、時間もほとんどないなかで来日した俳優たちとリハーサルを重ね、本番を迎えることになった。上記に述べたように、この舞台では照明や音響がきわめて重要な演出である。にもかかわらず、照明も音響もほとんど完璧と言ってよい仕事をしていた。技術スタッフの名前を劇評にあげることは滅多にないことだが、ここでは照明の川島幸子、神谷怜奈、そしてとりわけ音響を務めた青木亮介の名前を挙げて改めて拍手を送りたいと思う。