■準入選■
永田なづな
物語の中盤まで圧倒的な魅力で観客を惹きつけるのは主人公の継母である。彼女は強烈な意思をもち、白く平面的な舞台を極彩色に染め上げる。自ら物語をパワフルに造り出し観客の心を掴む。継母の所業が残虐であることは否定しようがない、しかし彼女は登場人物の誰より世界と真剣に関わっているようにみえる。
それに比してヒロインや王は紙人形のごとくどこか頼りなく魅力を欠いている。感情はあるが意思が感じられない。白い衣装にも白い舞台にもそして彼等の白い貌にも色彩は乏しく茫漠としている。恋をしてもどこかおままごとのよう。しかし彼等は生まれながらのヒロイン、ヒーローであり、少女は美しく素直、王は高貴で勇敢だ。舞台上でもみな彼等をヒロインとヒーローとして遇する。彼等は大して望まずとも脇役が先回りして助けてくれる上げ膳据え膳といったような人生を歩む。彼等は決して怠けているわけではない。少女はけなげに生きている。王は気高く生きている。
何か、おかしい。私はこの美しい作り物の舞台を期待して劇場に足を運んだのではなかったか。折り紙のような美しい非現実の舞台。人形のように美しい貌と肢体を人形のようにぎこちなく動かす女優。身体に遅れをとって紡がれるたどたどしい言葉。暗転などの演出によって絵画のように切りとられる光景。2011年宮城氏演出の『少女と悪魔と風車小屋』を観て満足し今回も期待していることが目の前で起こっているのではないのか。私は何を求めているのか。
ヒロインとヒーローへの物足りなさは継母が力強く彩ることによって補われる。そうか、これはおとぎ話なのだ、主人公が浮世離れしていても人間としての存在感に欠けていてもしょうがないのだ、と思いかけたとき、物語は大きく動き出す。
少女は王宮の牢獄に囚われそこで旅の一座(いくらも団員はいない)と再会する。ヒロインはまたも都合よく旅一座に助けられる訳だが、この先がこれまでとは大きく違ってくる。ここへきてヒロインは自ら考え、行動し始める。少女は旅一座が王族の前で披露する劇中劇に出演することになる。少女は旅一座の脚本に手を加え、王と少女のいきさつを再現する。ハムレットの『鼠捕り』のように……。
そして劇中劇に取り組むシーンで少女は呆気なく主役の座をあけ渡す。劇中劇のではない、この劇自体の主人公の座をあけ渡すのである。ただその座は誰に譲られたというでもなく、いきいきとした群像劇が繰り広げられる。意思薄弱でつまらないヒロインは意思をもち行動し始めた途端に魅力的な群衆のうちの一人となる。
少女は全く新しい物語をつくったのではない。ただ王に真実の物語を追体験させただけである。けれど紛れもなく自らの物語を創り始めたのだ。自分の人生を歩み始めたといえばよいだろうか。これまで与えられた、ヒロインとしての人生、身も心も美しく生まれ、白馬の王子様に出会う。おとぎ話の必然にただ流されるように、そして持ち前の気質にもれなくついてくる特典を享受するだけで生きてきた少女が初めて王の愛を取り戻そうと、泥臭い真似をする(演劇が泥臭いというのではありません、念のため。)。すましてなんかいられないとばかりに。おとぎ話の主人公がこれまでの役回りを手放して、スポットライトの外へ出てまでして、ただ一つのものを得ようと動き出すのだ。それはまるで、地位も名誉も失って国を追われた勇者の冒険譚の始まりのようで、いきいきと動く少女の姿に心動かされ、物語は大団円に向かいつつあると理解しながらもワクワクしてしまう。
少女と対照的に力と色を失った継母の最期は舞台では演じられず、観客はただ演者による報告をきくのみだ。あのように強烈なパワーを持った継母が呆気なく身を投げることに俄には納得がいきかねた。しかし思えば彼女の娘がコッペリア紛いの人形だったことが暴かれたときから、彼女の拠り所はずっと以前に喪われており(本当の娘はずっと以前に亡くなっていた)彼女の強烈な力がひどく危ういものの上に成り立っていたことは判っていたのだ。虚勢さえはることができなくなったとき、彼女は儚い露と散るしかなかったのかもしれない。
最初頼りなく退屈にみえた少女は欲するものを見つけてそれを得るべくはばたいた。かたや力強く魅力的にみえた継母は、実は一番大切なものを喪いながらそうと認めることさえできず亡霊とダンスを踊っていたのだと判る。
人は優しい。悲しんでいる者がいれば同情するし、余裕があれば助けもする。けれど、それは無限の優しさではない。また余裕というのは不思議なもので、ありそうなところになかったり、なさそうなところにあったりする。週末に劇場に来ているからといって余裕の欠片ももちあわせていない者がここに居るのに、舞台に目を向ければ、庭師を始めとする脇役達はさして恵まれた境遇でもないのに主人公たちの世話をやき、天使に至っては忙しいことこの上ないはずなのに、度々登場しては一晩主人公の仕事を肩代わりするのだ。また人は嫉妬もする。多くを持つ者がいれば、羨み、苦労もなく多くを得る者があれば嫉妬する。自分の中の醜い感情と向き合いたくなければその感情を封印することもできる。そして共感することも封印してしまう。主人公が欲するものを自分の手で掴みとろうと動き出すまで、私が主人公に共感できなかったのはそういうことだろうか。
他の人の感想が気になりだして会場で配られた解説を手に取る。少女の英明さをコルベイ氏が指摘している。ああ!もしや私がうとうとしている間に少女は静かに闘っていたのだろうか!そう、私は舞台前半、まどろむ度、演者の歌に起こしてもらっていたのである。
前半、重い瞼と格闘していた私が何故無責任にも劇評を書こうと思ったのか。後半すっかり目を覚まし、ちゃっかり感激したためと、そして昔デッサンの教師が言ったことばを都合よく覚えているからである。「半眼で観たほうが、はっきりすることがある。」