劇評講座

2012年6月25日

■準入選■蓑島洋子さん 『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

蓑島洋子

 演劇って何なのか。
 感動的な物語を伝えるもの。登場人物になりきって演じるもの。誰かの人生を疑似体験するもの。強い思想を訴えて納得させたり説得したりするもの。テーマを提示して考えさせるもの。身体の表現、舞台や衣装や光の美しさ。難しい概念をわかりにくく練りこんで惑わせるもの。
 演劇とは何なのか。目的は、役割は何なのか。誰のためのものなのか。

 私は何かを求めて劇場に向かう。少しだけ心を揺さぶられること。自分の奥で眠っていた気持ちが目を覚ますこと。感動すること。新しい発見をすること。不快になること。反発すること。だいたいの場合は、期待していたことと実際に感じることとは違っている。それでも、創り手は何かの意図を投入しているものだと思って作品を観る。そして何らかの手ごたえを感じることができれば、観劇したという実感と満足感が持てる。

 この作品から感じたものは何だろうか。

 「グリム童話~本物のフィアンセ」のストーリーは、少女が度重なる苦難を乗り越えて、王様と結婚するというハッピーエンドのお話だ。
 母を亡くした少女は、父が再婚して新しい母親と妹と暮らすことになる。継母は少女を追い出すために無理な仕事を与えるが、「働く子供のための天使」が現れて少女を助けてくれる。継母は少女のせいで父親が死んだと嘘を言い、とうとう少女を追い出すことに成功する。少女は庭師とともに森へ逃れ、やっと泣くための夜を見つけたと言う。
 そこへ王様が現れ、少女と恋に落ちる。少女と結婚する約束をして森を離れたが、継母に「忘却の水」を飲まされ、少女のことを忘れてしまう。王様は実は人形である少女の妹に恋をして、継母の言いなりに戦争を始める。
 森で待っていた少女は、戻ってこない王様を追って自ら探しに行く。少女は継母に投獄されるが、役者たちの助けを得て、王様の記憶を取り戻し、二人は結ばれる。

 物語の展開に楽しみを見出そうとするのならば、この作品のストーリーそのものはシンプルで退屈だ。かわいそうな少女に同情しようにも、少女が受ける苦悩は、周りの助けを借りたり自らの力を発揮したりして、次から次へとあまりにもあっさりと解決され、むしろ少女のしたたかさが目立つくらいである。
また、登場人物のキャラクターは魅力的で楽しく目を奪われるのだが、彼らのインパクトは強烈で、ストーリーが吹き飛ぶくらいの存在感である。セリフなのかアドリブなのか。演じているのか役者自身の顔なのか。敢えてカツラを取ったり、衣装の名札を見せたり、舞台スタッフ役が登場したりして、役者が演じていない姿を見せることで、ストーリーに没頭しそうになるのを押し戻される。
 他にも特徴的な表現のひとつとして、たびたび静止した場面が登場するが、これは絵本を一枚ずつめくるように情景が目に飛び込んできて、動く映像を見る以上に状況を想像できる。想像の中では絵と絵の間まで大げさにイメージができあがり、ますますのめり込まされる。それなのに、王様と馬丁の登場によってイメージが停止する。二人の場面は不自然な姿勢をキープしてセリフを言い、滑稽にも見える。ストーリーに引き付けられては、突き放されるのである。

 また、舞台での生演奏も印象的である。こちらがハラハラしたりドキドキしたりする感情を誘導するように鳴らされて、ストーリーの展開に引き込まれることをコントロールされているかのようだ。そうかと思うと、さっきまで舞台にいた役者が演奏に加わっている。彼らが役から解かれて演奏する姿は、舞台上で進められていることが演じられた世界、偽の世界であることを強く意識させられる。そしてたぶん、演奏者という役を演じているのである。
 同様に劇中で俳優たちが芝居をしてみせる場面があるが、これもまた演じることを演じるという2重、3重の行為によって、舞台上の演じられた世界について意識を向けさせられる。

 役者が演じないこと、静止画による進行、生演奏、演劇の中で行われる演劇、その他いくつかの手法が、一見演劇の可能性を模索するように登場するが、そのこと自体は目的ではないのかもしれない。それらは単なる羅列であり、この作品の本質的な狙いは別の何かなのだろうか。

 「このバラはなぜこんなにも美しいのか」
 劇の冒頭で少女は言う。その答えを切望している。それは美しい心の少女の目に美しく映ったからなのか。少女のために母が自分のお墓に美しいバラを咲かせたからなのか。バラが咲くことそのものが、美しいということだからなのか。
 でも、もしもそんな理由に意味などなくて、そのバラは「なぜ美しいのか」を考えさせるためにそこに存在しているのだとしたなら・・・。

 「演劇って何なのか」
 おそらく演劇を創ることに係わるすべての人たちが、そのことを問い、可能性を求めてさまざまな作品が出来上がっている。演劇を観る私は、作品にちりばめられた答えに触れようと目を凝らす。
 でも、この作品に答えはなくて、そのこと自体を問うために在る作品なのだとしたなら。