劇評講座

2012年6月25日

■入選■『少女の十字架』鈴木麻里さん 『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■入選■

少女の十字架

鈴木麻里

 継母はなぜ自死したのだろうか。
 こぶ付きで転がり込んできて無理難題を言いつけた挙句に少女を家から追い出してしまったのは、連れ子をこの家の唯一の娘として幸せに育てるためである。少女のフィアンセである王様に薬を飲ませて彼女を忘れさせたのも、愛娘と結婚させるためだった。馬丁がこの娘の正体を亡き子の似姿の蝋人形だと知っても母は動揺を見せず口止めし、王様と人形との婚姻成就に努めることをやめなかった。少女が劇の演し物になぞらえて王様の記憶を取り戻すのを阻もうとしていた。
 それが何故か、王様自身が舞台上に立っておりもはや上演を止めることは叶わないと知るや、喚きながら去ってしまう。王様が本物のフィアンセは少女であると思い出した頃、馬丁の台詞で最期が告げられる。継母は身を投げ、蝋人形は落下して砕けたと言う。

 母親の発心は、限りなく不可解に映る。この王様を奪えないならば、今度は隣国の王様でも何でもそそのかすべく、直ちに人形を抱えて出立すればよい。他でもないこの王様と娘を結婚させることがかねてから人生の最終目標だったのならばもう少し王様と縁故のある家へ潜り込んでいれば良さそうなものの、市井の肉屋とわざわざ冒頭で結婚しているあたり、どうもそうは考えにくい。
 この役は男性によってパワフルに演じられており、『伽羅先代萩』の八汐等、歌舞伎の上演で女の敵役を立役が務める慣例を連想させる。そうすることによって線の細い女形が演ずるより凄みが出るとの言にも頷けるが、男の敵役に比べて女の敵役は例が極端に少ないことからも、悪い女を描くことへの忌避が念頭に上る。立役が演ずることにより、「これは女であって女でない」というエクスキューズが付与される。

 少女に残忍な仕打ちをする継母であると同時に、彼女は献身的な実母である。蝋人形に優しく語りかけ、幸せにするべく尽力する。この義理の妹は背格好が不思議に少女とそっくりであり、劇中、多くは舞台奥の白い幕に映る影で表された。少女の姿と義妹の影がぴったり同じ形状で重なり合う場面や、お人形そのものを少女役の俳優が演じる場面があった。虐げられる継子と溺愛される実子の奇妙にも寸分違わぬ姿は、あの蝋人形が実は少女を象ったものであることをほのめかしている。
 母性の持つ包含性は、子どもを丸ごと抱きかかえ慈しむこと無限である様な肯定的な面を持つとともに、子どもの自我の芽を呑み込んで混沌へ退行せしめ終には死へ至らしめる恐ろしい顔も持っている。初版グリム童話で白雪姫をお城から追い出したのは実の母親であった。継子譚に現われる継母とは「母であって母でない」というエクスキューズを付与して語られる、母なるものが元来持つ姿なのである。

 実母の死によって示唆されているのは、思春期を迎えた少女の中で母親の絶対性への信頼が揺らいだことであると考えられる。継母が彼女に無理難題を言いつけたのは、それを察知した焦燥に発するものではないだろうか。懸命な躾が高じたものとも取れる。少女にそっくりな人形をかわいがるのは「昔はよかった。小さい頃はあんなにかわいかったのにね」と言う、しばしば人の親が漏らすあの恨み節であると同時に、子を慈しむ今も変わらぬ情の表出である。
 家からの追放は、「そんな子はうちの子じゃありません。出て行きなさい」と言う、あの常套句を想起させる。本当に子どもを追い出すわけではない。この少女も、家を出た後、フィアンセに忘れ薬を飲ませると言う手段で義母に干渉されている。未だその段階では、物心双方に於いて親の手の届く範囲で彷徨っているに過ぎない。

 継母からの理不尽な仕打につけ、家を出てからの身寄りのない境遇につけ、少女は概して運命を受容することによって乗り越えていった。片付けられそうにない言いつけに「絶対に無理……」と一人で呟いたり、森の小屋でひっそり泣いたりはするものの、声を上げて親に刃向かったり家に戻ろうと画策したりすることはなく、出来事に対して淡々と心を動かしていた。
 自発的な行動をし始めるのは、冠を探しに行って帰らぬ王様を探し、ついに宮殿まで尋ねて行く場面である。別れ際に受け取った彼のシャツの切れ端を見せるも、王様は少女を思い出さない。義母の命で放り込まれた牢屋には、旅の役者たちがいた。少女は彼らとともに王様の御前で芝居を上演することになる。

 彼が本物のフィアンセを思い出す様に、彼女は役者たちのレパートリー台本を書き直しはじめる。ペンはみるみるそのスピードを速め、震える様に動いた。「出来た……」と口にする少女は、両の腕を掲げて空を仰いでいた。運命をその本分とする親子結合に直交する、意志より成る男女結合の小さな枝をすっくと差し伸べた瞬間に思われた。
 王様が記憶を見事取り戻すに至って、継母の死と義妹の粉砕と相成る。少女を呑み込もうとする強烈な鬼の影は去り、お母さんの手から離れたことがなかったかつての少女は喪われた。

 父との邂逅を経て物語は終幕へと向かう。もうお話することが無くなったからである。
 少女は次なる母へと変身を遂げた。いずれ、身中から分離していった我が子を大きく見開かれた眼で見つめる時が来る。物語ははじまりから、子々孫々繰り返されて行く。

参考文献
河合隼雄『家族関係を考える』(1980年9月、講談社)
同『昔話と日本人の心』(2002年1月、岩波書店)
金田鬼一訳『完訳 グリム童話集5』(1979年11月、岩波書店)
G.K.チェスタトン(福田恒存・安西徹雄訳)『正統とは何か』(1973年5月、春秋社)