■準入選■
深澤優子
1月28日の「少女と悪魔と風車小屋」を観劇した。
劇場入口で演出家の宮城さんが出迎えてくれる。きらきらした目の、きどりのない小柄な人だ。「この人はかわいいものが好きそうだなー」と思いながら入口をくぐる。
柔らかな光に照らされた舞台は隅から隅までが白い。舞台上左側に打楽器を中心に、楽器が並べられている。舞台装置は折り紙の手法で構成されているので直線的な印象であり、巨大な白い壁が正面にある。グリム童話を下敷きにしたこの劇が記号と隠喩に満ちたものであることを予感させる。だが、それよりも、私の注意を引いたのは、舞台上、右手におかれた、白い折り紙で作られた木きな角のある鹿のオブジェである。これは、ただの「童話に登場する森の鹿ではなかった。この鹿は役割を三転し、後に天使の起こす奇跡を舞台に現出する仕掛けとなった。
舞台袖の白い衣装の役者たちによる生演奏は祝祭的で賑々しい。音楽に応じて現れた一人目の登場人物、風車小屋の娘の父親は、やはり白い衣装である。そしてロボットのように、平板に不自然にしゃべる。動きもロポットのようである。男の妻も(これは男性が演じていて迫力があった。古典的でもある。)他の登場人物もみな、衣装は白で、平板にしゃべり動く。後に出てくる少女も庭師も王子も、出演者の衣装はみな白だ。動きも発声も意図的に統制され制限されている。不自然な姿勢でのストップモーションでせりふをしゃべる場面の連続を可能にするのは演技者の鍛錬であろう。
舞台では余分な動きも、色彩も排除されている。その分、デザインも素材もより注意探く作られていて、観客は舞台上の仕掛けや演出家の意図にきちんと気づくことができ、何度も謎解きの楽しさを味わうことになる。
巨大な白い壁はいつしか大きなスクリーンになり、そこに写った父親の薄い影は、いつのまにやら、黒く顔を塗った悪魔にすり替わっている。不古な悪魔の出現は実に巧妙に演出されており、観客は思わずしらずぞっとする。この瞬間、黒は白に対するもう一つの色彩となり、存在となる。口数少ない父親に対し、悪魔は饒舌だ。父親はいつの間にか風車小屋にいる自分の娘を悪魔に与える契約をさせられてしまう。だが、少女は悪魔にたった一人で抵抗する。少女が描く水の結界の輪は光の円で表現される。悪魔に命じられて抵抗する娘の手を切る父親が現実に手に持っているのは鈴である。だが、スクリーンに映しだされた父親の影が手に持つのは斧である。斧の記号としての鈴が鳴るとき、少女は両手を切られてしまう。もちろん、白い舞台に赤い血が流れるわけはなく、少女は無感情に「いたいわ、おとうさん」と叫ぶ。それでも観客はこの場面の残虐性に打たれる。舞台では、実在と影、善と悪、天使と悪魔、虚と実、が対立したり、交わったり、次々に柔軟に入れ替わっていく。
手を切り落とされた少女が家を出ることで物語は俄然動き出す。
折り紙の鹿の位置を出演者がずらして光線の角度を調整すると、白いスクリーンに映る鹿の角の影は梨の木である。その木には光でできた梨の実が実り、少女はその梨で空腹を満たす。そして、梨園の主であり運命の相手である王と出会う。二人の間には玉のような男の子が生まれる。やがて、悪魔の悪巧みで殺されそうになった子どもの身代わりとして「鹿」は殺され目玉をくりぬかれ舌を切られる。だが、鹿は退場せずそのまま舞台上にある。鹿の角の影はもう一度角度を変えて、子どもを連れて森に逃げ込んだ少女の隠れ家になるのである。
少女は天使に困難の度に、食べ物を、家を与えてくれと無邪気に祈る。だが、それははじめから舞台の上に準備されていたのである。ただ、天使はそのありかを示すだけだ。奇跡はいつもすでにそこにあるのだ。
少女は言う。王は王冠をかぶっているから王なのではないと。王は王であるから王なのである。とするならば、手を父親に切られ、勇敢にも一人荒野をさまよう少女はあらかじめ王の后になるべくしてなったのかもしれない。風車小屋の娘が王妃になるなど、まさに奇跡の範疇である。
世界は奇跡に満ちている。奇跡は世界のあちこちに、当たり前のように私たちのために準備されている。
私がこの舞台から、受け取ったメッセージだ。見終わった後、おいしい西洋菓子を食べたような幸せな気分になる。自分がいつかみたいと思っていたのは、こんな舞台だったような気がふとする。
その気分を乱されたのは、7歳の王子の声が成人男性の声であったときと、風車小屋の父親(この人は声優のような特徴のある声の人だ)の役の人が別の配役で出ていたときの2回だけだった。