身心を励起した声は、エネルギーとなって……
――― 鈴木忠志演出『サド侯爵夫人(第2幕)』を観る
阿部 未知世
<Shizuoka 春の芸術祭>に先駆けて、4月5日から始まった、鈴木忠志演出作品2本の連続上演。初日の4月5日に上演された『サド侯爵夫人(第2幕)』は、この企画のキャッチコピーそのままに、まさに<息つまる、言葉の格闘!>そのものの、力に満ちた舞台だった。
三島由紀夫の手になる3幕もののこの戯曲は、こんな物語である。
サド侯爵はスキャンダラスな男。しかしその妻ルネは、そんな侯爵と別れない決意をしている。何故ならサド侯爵は、美と醜、善と悪がひと続きになった無垢な<悪徳の怪物>。ならば妻であるルネは、<貞淑の怪物>になろうと心を決めたのだから(第1幕)。
貞淑な妻ルネは、その貞淑さ故に、世間体が何より大事な現実主義者の母モントルイユ夫人との、長く厳しい対立が続く。その母の口から暴露されるのは、かつて密偵が垣間見た光景。それはサド侯爵の居城で行なわれた狂宴だった。
自らの貞淑に命じられたからこその、悦びを伴っての、その時のルネの振る舞い。世間的な善悪や良識といった、どんな分類からも自由な、怪物であり無垢であるサド侯爵の存在に深く共感し、自らその存在に貞淑であることを選び取った、共犯者としてのルネがそこにいる。ルネはまっすぐに顔を上げこう言い放つ。サド侯爵すなわち<アルフォンスは、私だったのです>と(第2幕)。
サド侯爵は自らの哲学を書くことで、精神の自由を獲得した。ルネはその哲学に殉ずるがごとく、生身のサド侯爵を受け入れることなく、自らの意志で修道院へ入る(第3幕)。
これは論理劇、言葉の芝居である。
三島は、自ら生み出す言葉の抽象性と浄化力に強い自信を持ち、最も下劣で汚らわしく、最も残酷で不道徳なことを、最も優雅な言葉で語らせている。しかし一方で、日本の新劇のセリフの演技的表現力には不満を持っていた(三島由紀夫<『サド侯爵夫人』の再演>、昭和41年7月1日、毎日新聞)。
鈴木忠志自身も、三島が<サド侯爵をネタにして見事な論理を、こともあろうに演劇の戯曲として展開して見せ>ていながら、それが舞台になると<三島の理屈はほとんど説得力を持って届いてこな>いという不満を抱き続けて来た(鈴木忠志<『サド侯爵夫人』の上演にあたって>初演の演出ノート))。
やがて機が熟して2007年、<演出家としての「男の意地」>(鈴木忠志、前掲文)がかたちとなった。その再演が、この度の公演だったのだ。
その<サド侯爵夫人(第2幕)>は、こんな舞台だった。
緞帳もない、黒を基調にした、光の少ない空間。床には白っぽい絨毯が敷かれ、中央には低く四角いテーブルと椅子数脚。奥には少し丈の高い小さな台。テーブルの上には陶器の大鉢、床にも陶器の胴を持つ大型の電気スタンドが2基。陶器はみな、土の色そのもののように模様のないくすんだ色彩(陶器:黒田泰蔵)。総じて、極めて簡素なしつらえである(美術:戸村孝子)。
登場するのは、ルネ(高野綾)、その母モントルイユ夫人(久保庭尚子)、ルネの妹アンヌ(大桑茜)、サン・フォン伯爵夫人(内藤千恵子)、それに演劇研究者の男(蔦森皓祐)の5人。ただし男は原作には存在せず、舞台中央の一段と奥まったところにずっと居て、最小限度のト書きなどを語るのみの存在。
発せられる言葉は確かに、美しく力強い。
その声はしかし、伸びやかに発せられることはない。声は再び引き戻され、身体の内深くに籠められ、全身の細胞に浸透してそれを励起し、それを突き抜けて、全身から発せられるかのように、時に爆発的に、時に直線的に、時にぼわりと身体を包むように、充分なエネルギーを内に蓄えた言葉として空間に放たれる。
身体も、おおらかではない。極めて禁欲的に、重心を落とし、上体は静止したまま顔面も無表情に、時にすべるがごとく、時に大地を踏み鳴らすかのように歩を運ぶ(当然、ト書きにある具体的な所作はほとんど行なわれない)。
身体が禁欲した分、言葉はなおエネルギーを増し、エネルギーが身体を透過した分、身体はそれだけ豊かに陰影を増す。
それはまさに、600年以上の時間をかけて純化されてきた、能楽の身体技法と深く大きく通底している身心のありかた。そこでは言葉そして思いは、どこよりも骨肉化している。
第2幕のクライマックスでルネは、どんな分類やラベルからも自由な、怪物的で無垢なサド侯爵そのものであることを、自ら宣言した。その時このルネは、単なる観念が発する薄っぺらな言葉を口にしたのではない。
サド侯爵と確かに共有された、生身の哲学が、ここにいるルネ自身の身心に具現している。そう言い切ってもよいほどに、その場はエネルギーに満ちていたのではないか。そして場をともにする、私たち観客の心は深く強く、揺り動かされたのではないか。
三島由紀夫の優雅なセリフが、ロココ風のしつらえの中で華麗に展開することを期待する向きには、大いに失望し、嫌悪する舞台だったことだろう。
登場人物がまとう衣装さえも、グロテスクである。ルネの白く長いドレスは置くとして、他の3人の女性はみな、まるでオオトカゲのごつごつした皮膚のような、分厚くいかつい布をまとっていた(衣装デザイン:鈴木忠志、テキスタイル:堀内織江)それは、世間体や常識で分厚く身を包んでいる彼女たちを象徴してあまりあるものだった。
最後にルネは、美空ひばりの<誠ひとすじ、この道を行く……>という、野太い歌声とともに舞台から去って行った。第二次世界戦後の繁栄を身をもって築いて来た、多くの日本人の身心に受け入れられて来たこの歌声。その歌声の中で、妙に安心している私がいたことも事実だった。
この感覚は、一体どこから来るのだろうか。
否応もなく繁栄の原動力となって来た、私たち戦後の日本人。世代を超えて私たちは皆、繁栄や豊かさというひとつの共通の価値観を選び取り、鎧のように厚くそれを身にまとって生きて来た。その姿は、モントルイユ夫人のそれと、どれだけ違っていただろうか。
しかし鎧をまとった個々人の裡深くには本来、無垢なる何ものかが宿っている。それはしかし、常識や世間的な価値から自由であるが故に怪物的でもある。その一筋縄ではいかない無垢なるものを深く眠らせたままで、私たちは邁進して来た。私たちは、意識するか否かに関わらず、みなその裡深くに一人ずつ、ルネを抱えているのだ。
舞台上のルネはしかし、怪物でもある無垢なる生き方を選び取った。その意味でルネは、孤独の只中にいる。そして世間的なるものと闘っている。
そのルネが、戦後の日本人の身心に深く受け入れられて来た、美空ひばりの歌声とともにそこにあった。ひばりもまた、熱狂的に支持されつつもどこか怪物的な存在。そして間違いなく孤独な闘う人だった。
日本人の身心を強く励起するひばりの歌声とともにルネに出会った時、呼応するふたつのエネルギーに触発されて私たちは、無垢なる怪物ルネが、それぞれの裡にいることを、切実に感じとったのではなかったか。
その意味で、モントルイユ夫人とルネが延々と積み重ねた言葉の応酬。その厳しい対立はすなわち、(意識されないとはいえ)戦後の日本人が抱えてきた二面性の、深刻な葛藤に他ならないのではないか。そのことが、ひばりの歌声とともに明かされたのではないか。
それ故なおさら私たちは、舞台上のルネの、ひとすじにおのれを貫く姿に感動し、いとおしく思えたのではないか。ひばりの歌声とともに歩み去る、ルネは崇高でさえあった。
舞台に居たのは、フランスのロココ時代を生きたサド侯爵夫人ルネであるとともに、生身の私たちの、半身としてのルネではなかったか。
この思いは、情緒に過ぎるのかも知れない。そして、劇作家三島の意図とも食い違うかも知れない。それは一体どこから来たのだろうか。演出家鈴木忠志の創り出した世界に負うところが大きいのではないだろうか。
<了>