劇評講座

2008年6月15日

『消された官僚を探して』(ラビァ・ムルエ作・演出)

ベイルートで記憶を死守する――『消された官僚を探して』

北村 紗衣

 レバノンのアーティスト、ラビア・ムルエの一人芝居『消された官僚を探して』は、5/14に静岡舞台芸術センターで上演されることになっていた。ところが5/7にレバノンで武力衝突が発生し、ヒズボラがベイルート・ラフィク・ハリリ空港を封鎖したため、出演者であるラビアは出国できなくなった。
 一時は上演が危ぶまれたが、『消された官僚を探して』はラビアが直接舞台に姿を現さず、スクリーンを通して観客に語りかける作品であることが幸いした。ラビアの強い希望により、ベイルートのスカイプで映像を生中継するという手段で公演が行われたのだ。上演前の解説によると、ラビアはたった1日で自宅にインターネット回線を3本引き、直前までリハーサルを行ってやっと中継できる状態までこぎつけたという。中継状況は良好とは言えず、上演中にラビア宅が停電して映像が途切れ、発電機を用いて中継を再開する一こまもあった。しかしながらラビアはそんな中でもユーモアを忘れず、観客に良い舞台を提供しようという気概に溢れていた。
 しかしながら、最先端の情報テクノロジーを活用し、血の滲むような努力をしてラビアがベイルートから静岡の観客に発信したものは、なんと「新聞の記事」であった。『消えた官僚を探して』は、大金とともに行方不明になったレバノン財務省の官僚についての新聞報道をひたすらラビアが検証し、その様子を舞台上の3つのスクリーンに映し出すという作品だ。それぞれのスクリーンには、ラビアがスクラップした新聞記事、観客に語りかけるラビアの顔、手書きの検証メモが映し出される。観客は、ベイルートからわざわざインターネット中継で新聞を読まされるという奇妙な事態に直面する。このデジタル化の時代になぜ新聞なのか。ラビアが発信しているものは一体何なのだろうか。
 我々がまず圧倒されるのはラビアが提供するニュースの多さだ。ラビアはレバノンの主な新聞から官僚失踪事件の記事を全て切り抜き、日付順に整理している。新聞に汚損などの問題があれば新聞社に問い合わせ、雑誌などの記事もできるだけ保管する。その膨大な記事をスクリーンで見せられた観客は情報の洪水に溺れ、事件の仔細を追うことはほとんどあきらめてしまう。一方で情報収集に対するラビアの執念はひしひしと伝わってくる。
 ラビアいわく、治安の悪化に伴い、増加する失踪者の記事を切り抜くようになったことが記事収集のきっかけだという。この作品の出発点は、あらゆる物がいつなくなるかわからないレバノンという場所で失われていくものの記憶を保存し、整理することなのだ。最後に紹介される記事が、失踪した官僚のほとんど原形をとどめぬまで損壊された死体に関するものであることは示唆的だ。極度に治安の悪化したレバノンでは、どんな人間であろうともいつ消されるかわからない。
 一方、新聞は内戦下であろうと毎日発行される。スクラップブックに貼り付ければ何十年でも保つ新聞は、実のところ、電気がなければ利用できず、多くは20年程で壊れてしまうデジタルの記録媒体よりも強靱だ。新聞は人間すらいつ消されるかわからぬ場所においては最も頼りになる資料であり、レバノンの人々に情報を提供し、過去を保存してくれる。ラビアはそんな新聞記事を集めて保管することで、レバノンを取り巻く破壊の渦に抗おうとしているように思われる。
 しかしながら、ラビアは新聞が常に信用できるわけではないことも仄めかす。官僚失踪事件に関する記事は錯綜し、時として不明確だ。ラビアが行う新聞記事の検証は、新聞が貴重な情報手段であることを確認する一方、読み手のほうもその情報の価値について意識的に考えねばならないことを示唆する。ラビアはいくつかの新聞に掲載された不鮮明な写真を比較し、オリジナルの資料にあたることが重要でコピーには疑いの目を向ける必要があることをさりげなく観客に印象づける。また、ラビアはある日から16日間、ぱったりと官僚失踪事件の記事が新聞に載らなくなったことに触れ、この「空白の16日間」のかわりとしてショパンのワルツを3分間観客に聞かせる。この3分間は、大量の情報に疲れた観客を休ませる一方、ジャーナリズムの気まぐれさを諷刺する捻れたユーモアとして見ることもできるだろう。ラビア・ムルエはいつ失われるかわからない情報を並々ならぬ情熱で収集し保存する一方、自らの頭で自由に考え、その信憑性を疑うよう観客に勧める。
 『消された官僚を探して』は、レバノンという不安定な場においてたやすく失われかねない記憶を保存したいという切迫感から生まれた。ラビア・ムルエがこの舞台において果たしているのは、小さな文書館を作って観客と情報の橋渡しをする誠実な「司書」、脆い記憶を風化から守るアーカイヴ管理者の役割である。彼は危機的な状況にあっても情報を蓄え、整理し、それについて自由に考えることがいかに芸術にとって必要かを観客に示す。ベイルートからラビアが発信したのは単なる新聞のニュースではない。彼が発信したのは、失われてゆく記憶を保管することの重要性、そして保管した小さな新聞の囲み記事を通して自由に考えることの重要性なのである。

(観劇日:5月14日)