この作品は、ヨーロッパという「演出」によって書き抜かれるヨーロッパという「戯曲」の到達点と限界点を見せていた。演劇の言語の重厚性を十分に感じさせるが、それをメタ的に観つつ、でもやっぱり言葉の力を信じていることを圧倒的なパフォーマンスで説得していく。観客を圧倒する密度と強度をもった作品となっていた。
この劇は、シェイクスピア作「ハムレット」を様々な哲学者たちの解釈や、俳優たちによって語られる新たな解釈を交えながら上演していくものだった。本当は10時間に及ぶパフォーマンス作品のようで、それを3時間弱にまとめていたこともあってか、俳優は怒涛のスピードで語りを入れてはシーンを作りを繰り返していく。戯曲「ハムレット」の結論やセリフを完全にメタ的に捉えて、これまでに語られてきた解釈を先に語ったうえで観客にも解釈の余地を残し、膨大な量の「問いかけ」を残していく。基本的な流れは、「問いかけ」と「仮説」を縦構造、つまり物語の構造になるように積み上げていくことで最大の疑問である、「to be or not to be」に対する答えを探していくものだ。その問いはいつの間にか「私達は存在するのか、しないのか」という形而上学的な問いへ、またそれは「この虚無の中で私達は何をするべきか」という現在形の問いへと繋がっていく。
演劇には、いや他のあらゆる「行為」には「根拠」が必要で、その「根拠」が太く、強くあることによって「行為」の方も太く、強くなっていく。そして強められた行為には実際に起っていること以上の力が宿る。ガンジーの塩の行進を思い出してほしい。あれは多くの人々が彼を支持し、同行するという強烈な「根拠」が彼の「行為」(行進)を裏付けていたことによって、「行為」の力が強まり、同時に「根拠」の力も強まって現実を動かした。行進以上のことが起こったわけだ。この作品も構造は同じだ。この作品で登場する西洋哲学の巨人たちの哲学は、「ハムレット」の言葉たちの「根拠」となって、目の前で行われるパフォーマンス(行為)を強烈にエンパワーする。さらに恐ろしいのが、この俳優たちの「行為」のされ方にも西洋演劇の巨人たちによる「根拠」があることがわかる。例えば、どう展開していくかにハラハラさせるのではなく、結論を先に提示して出来事のプロセスを吟味させる演出はブレヒトの演劇論に見えたし、舞台の上で俳優自身がどのように見えるかを、繰り出す動きや立ち方、体の状態まで細かく計算され尽くしているが、まるでその場その場で俳優が自分のすべき行為を一から発見し直しているように見える点でピーターブルックの演出法のようだった。また、ハムレットの劇中劇では人物の感情がとても自然に体に表出されているようにみえて、スタニスラフスキーの演技法を思わせていたし、観客を大胆に巻き込んで香水を振りまいたりボールを投げてキャッチボールのようにしたりと五感を刺激し、インタラクティブにして場に熱狂の渦を創っていったのはアントナン・アルトーの残酷演劇を思わせた。私が予想するだけでこのくらいの人物による「演出」の「根拠」を持ち、「戯曲」に関してはシェイクスピアの天才性と、西洋哲学の積み重ねによる圧倒的な「根拠」を持たせることに成功したこの劇は、まさにヨーロッパを「行為」する威力を持ち得たのだった。彼らの行為は「この虚無の中で私達は何をするべきか」という問いに「言葉を残し、言葉を信じる」というやり方で答えている。やはり言葉が中心にある結論だと言える。
この結論部に対し、私達はツッコミを入れることができる。それはこの劇で行為される問いがあまりに大きいのに対してその答えに至るまでの思考法があまりに限定されていることについてだ。合理主義的な思考法によってではない方法で「私達がどう生きるべきか」を探すことはできるはずだ。例えばそれは上演中起きたあるアクシデントから垣間見ることができる。
オフィーリアの死のシーン、死の場面で舞台と客席の間を蝶々もしくは蛾が横切っていった。野外劇場の奥の森から舞台照明につられてやってきたのだろう。蝶は日本文学では古くから死者の化身のメタファーとして扱われてきた。また莊子の「胡蝶の夢」では私達が何者にでもなりうる曖昧な存在であることを表すものとして登場する。そしてこの自然現象による劇の意味の変化は言葉によって根拠付けられたものではない。磯崎新の建築、また静岡の日本平という地が呼び寄せた偶然だった。(英語では蝶と蛾は同じbutterfly、フランス語でもどちらもpapillonであり、日本語とは一見表層の微妙な違いにしか見えないこの生き物たちの差を細やかに捉えることができる言語であることも、このエピソードは示している)私はこの蝶の飛び入り出演から、あらゆる可能性のゆらぎを受け入れながら偏在する自我としての自然に身を委ねるような(けっしてそれは諦めや虚無ではない)思考法へ賭けていくのもいいのではないかと感じた。むしろ、西洋近代的な思考法の限界を超えて、これからの現実の問いと向き合っていくのにも可能性のある転換かもしれない。演劇はいつも劇場の外、つまり政治を見据えるが、近代の限界を超えるすべを、近代を貫徹できない私達が演劇の上で明確にしてみるのはどうだろうか。