劇評講座

2012年11月6日

■入選■【「知の欲望」の解放へ ―『春のめざめ』(オマール・ポラス演出)を観て―】番場寛さん

■入選■

「知の欲望」の解放へ
 ―『春のめざめ』を観て―

番場 寛

 アフタートークのときに演出のオマール・ポラスへ「この劇のテーマは確かに書かれた18世紀や初演された時代においては、リアルであったかもしれないが、学校でも性教育がなされるようになった現代においてもこの劇を演ずる意味があるとしたならそれは何だろう?」と質問をした。それに対しポラスは、この劇で描かれた教育や道徳が子供を抑圧している状況は現代においても何ら変わっておらず、これは極めてアクチュアルな劇なのだと答えた。その意味を考えてみたい。 
 舞台には手前に一部が破壊されたコンクリートの建物の残骸があり、その後ろにはおそらく社会、つまり大人たちの世界の象徴としての枠組みだけの建物が見え、さらにその背後には森が広がっており、これは童話的な子供の世界を象徴しているのだろう。その三つの世界を横断する問題は「知」と「快楽」である。「知」とは子供たちの純粋な疑問、つまり「赤ちゃんはどうして生まれるのか」という知への欲望であり、大人たちが子供たちに押しつける、ギリシア語やラテン語などの教科としての「知識」である。
 モーリッツは落第させられるという恐怖におびえて自分の望んでもいない知識を詰め込もうと苦しんでいる。子供たちの「知への欲望」は「性」に対するものだけではなく、メルヒオールが、「何のためにこの世に生まれてきたのだろう」と言い、モーリッツが「何のために学校に行くのだろう」と問いかけるように極めて哲学的で真剣な問いでもある。
 しかし大人たちは子供たちの知の欲望には答えず、知りたくもない知識の習得を強いる。モーリッツが自殺した後残されていた卑猥とみなされた論文を書いたという教師たちの非難に対し、メルヒオールは「私はあなた方のよく知っていることをそのまま書いたに過ぎません」と弁明する。つまり大人の世界では当たり前のこととして流通している「知」を子供に対しては禁じることの不条理がこの場面では際立たせられている。
 赤ちゃんは愛している男の人と結婚することで生まれるのだという母親の説明を信じたヴェントラはメルヒオールの衝動に身をまかせた後も、「愛してない」し「結婚もしてない」のだからと安心したまま妊娠してしまう。そして堕胎薬を処方されたことで死んでしまう。これは大人が正しい「知」を与えなかったことにより子供の受ける被害と言える。
 また、「春のめざめ」というテーマが会話としてではなく、劇の演出として巧みに描かれているシーンがあった。それはヴェントラが見つめる中、彼女が遊んでいた木馬が遠ざかっていき、時間をおいて再び近づいていくシーンである。遠ざかっているとき手を差し伸べていた少女は、再び自分の元に戻ってきた木馬に跨がるとまるで大人の女のように木馬を揺すり、快楽の表情を浮かべる。
 またトークで、子供たちは土の上を裸足で歩き、大人たちは靴を履いていることについて、ポラス自身が説明したように、土は子供の世界を表し、その世界の侵入を恐れるから大人は靴を履くのだ。しかし劇の最後の方で観客を驚かせ、一瞬何が起きたのか戸惑わせる場面がある。それはそれまで子供たちを非難し、「自殺病」を防ごうと思案、議論していた教師や親たちが突然長い髪のかつらを取る場面である。かつらをとると彼女らは、一人で母親や教員を演じていた姿から少女へと変身する。移動公演という制約上の理由から一人で何役も演じたのでないことは、観客の目の前でかつらをとったことで明白である。ずっと昔にタディウシュ・カントールが「死の教室」という作品で行っていた演出を思い出させる。それは今にも倒れ息絶えそうな年老いた老人たちが背中に自分の幼年時代を表す人形を括りつけ登場した場面の効果に似ている。つまり実際は舞台で年月が流れる時間を表すべきところを、一挙に同時に表すのだ。
 この「春のめざめ」では、純粋な「知への欲望」を抱いていた子供たちも、年月をへるうちにはいつの間にか、その「知への欲望」を抑圧し、別の子供たちが欲しない知を押しつける大人へと変わるのだということを瞬時に見せている。
 墓地をメルヒオールが歩いているとき、幽霊となったモーリッツと再会し言葉を交わすが、その墓地の壁にはムンクの「叫び」を模した落書きが描かれており、そこにはcondemned to AGONY(激しい苦痛へと有罪を宣告されている)という言葉が添えられている。今回の上演で、墓地の墓標を見ながら、埋葬されている者の名として、この戯曲の作者のヴェデキントやフロイトやニーチェの名が発せられるが、これはフランスで上演されたときの脚本にはない。さらに子供たちを前にしてメルヒオールが言う「行け」と字幕に訳されたフランス語のSortez !も、もとの脚本にはないもので今回付け加えられたものと分かる。これは「大人たちの世界」、社会を成り立たせるために「知と性の欲望」を抑圧している世界から「外へ出ろ」という意味に訳すべきではなかったろうか?

■準入選■【まいりました、赤い封筒】小長谷建夫さん『THE BEE』(野田秀樹演出)

■準入選■

まいりました、赤い封筒

小長谷建夫

 筒井康隆のファンである小生にとって、なかなか興味深くかつ刺激的な舞台であった。
 尤もそれ以上に静岡の野田秀樹ファンにとっては長く渇望していた来訪だったのかも知れない。なにしろ機関銃のような台詞のやりとり、怒涛の如く転換する舞台や配役、これらに加え野田秀樹の驚くべき身体の柔らかさも、中年らしからぬリズム感溢れるダンスまでをも眼前にすることができ、まさに野田ワールドにどっぷり浸かった70分だったからね。
 それを言ったら宮沢りえちゃんファンには、これはもう興奮の極み、ほとんど絶頂感を味わった舞台であったことだろう。かく言う小生も、ポカリスエットのCMでの鮮烈なデビュー以来のりえちゃんファンでもあるから間違いない。あの妖艶さ、あの庶民性、あの啖呵。そういえば前半に足の長い警官が出て来るが、あれもりえちゃんだったのかな?印刷物の配役には載っていないから最後まで気付かず残念な限りだ。
 ともかくも離婚騒動で落ち込んでいるのではないかと危惧していたが、全く心配無用のようで、りえちゃんのことを心配するよりも自分の前立腺のことでも心配しようと思った観劇の夜であった。
 さてこのまま俳優論をやっていたら、確実に劇評失格だ。話を筒井康隆論から始めよう。
 筒井の毒気に満ちた作品が演劇人の嗜好に合い創作欲を刺激する理由はよくわかる。なにしろ筒井が各作品で取り上げるのは人間の隠し持つ狂気だ。どの作品も狂気が狂気を呼び、それはスパイラル状に高まり深まる。これが演出家の関心を引かないはずはない。
 毒気に満ちた作品と言ったが、その毒は決して筒井の毒ではない。読者の心に潜む毒であり、観劇者の毒なのである。筒井はそれを覆っていた常識や世間体や倫理道徳を取っ払い、白日の下に晒したにすぎない。
 筒井の悪い所は、いやいい所なのかも知れないが、狂気がとどまることなく収拾がつかなくなるまで放置してしまうことだ。
 常識や世間体にがんじがらめの我らは、物語が破局にいたる過程を寛容の精神で耐えるのだが、最後にはなんとか収拾してくれるだろうとの淡い期待を持ち続けるのである。全く我らは懲りない予定調和信奉者なのだ。
 一方筒井に収拾しようなどという気はないから、読者あるいは観劇者は狂気の高みに登りつめ、突然梯子を外されてしまうのである。いやもともとそこに梯子などもなく、スパイラル状に高まる興奮、男女がよく経験するあれだな、その上昇気流に乗って行っただけだから、クライマックス即転落死となるわけだ。
 筒井ファンを長く続けているとこの転落感がたまらなくなる傾向がある。
 野田秀樹はこの狂気を忠実に、いや更に増幅して表現した。小生が野田作品を観たのは、はるか昔、シアターコクーンでの「贋作 罪と罰」一回こっきりだから、あまり評論もできないのだが・・・その時も激しく転換する舞台で大竹しのぶが走り回っていたのを思い出す。
 大竹しのぶは不思議な女優だ。小柄なくせに、あの存在感。可愛いくせに、あのふてぶてしさ。そういえば宮沢りえちゃんだって負けてはいない。こんなタイプが野田秀樹の演出家としての五感、六感を刺激するんだろうな。
 いけない、いけないこのままだとまた女優論になってしまう。元へ戻ろう。
 文学作品や演劇の中では子供の指を折ったりしてはいけない、子供を殺してなどいけないという規制があるわけではないが、読者、観劇者には絶対にタブーとしてある。そんなタブーを次々と破る筒井作品。このタブー破りをさらに残酷に再現した野田。
 ポキリ!ポキリ!と。
 そこまでやっちゃいけない!と叫びたくなるな。
 そういえばBEEは被害者が加害者へ転ずる境目に登場するのかな。もう一度よく見ないとわからないね。タイトルになっているくらいだから極めて重要な役割をしていることは間違いない。このサラリーマンは虫嫌い、とりわけ蜂の類が嫌いなのはわかった。いや嫌いなだけでなく、あの羽音が生理的不快感とともに彼の狂気を増幅することもわかった。
 BEEが原作に登場してきた記憶はないから、きっと野田秀樹のメッセージがこめられたアイテムなんだろう。蜂の拡大映像が出てきたのは、主人公が血肉にまみれ始めた頃だったろうか。
 この芝居が、日常と非日常、正気と狂気、被害者と加害者などの境目あたりをテーマにしていることは間違いない。とするとBEEの出現と登場人物達の意識転換との相関関係を見落としている小生に劇を語る資格はないね。まあそれを言っちゃお終いだから、ここは演出家も井戸も蜂が大嫌いで、プッツンするきっかけになっていることがわかったというだけでいいとしよう。
 狂気の身体切り刻み惨劇の中、登場人物たちは一生懸命日常の行為を繰り返し、精神の均衡を保とうとする。まな板を叩く包丁の音が今も残るね。男女の性行為だって、最初はレイプまがい、いやしっかりしたレイプだったが、そのうち和姦だか習慣だかわからなくなっていく。放出を表すピストルの音も、徐々に湿り勝ちになるのも演出者の実感なんだろうな。
 高みに上り詰めたと思う狂気がまだまだ途上に過ぎないと思い知らされるのが、ドアの隙間からポトリ、ポトリと届け続けられる封筒だ。鉛筆の指折り音もそうだが、封筒の邪悪の赤さにも本当にまいったね。演出家の鋭敏な感性に脱帽である。
 さて原作者も演出家も、我ら小市民が自らの狂気を剥き出しにされて戸惑っているのを見て、にやにやと笑っているに違いないが、小市民だってそう初心ではない。
 井戸が加害者となってその悦楽に耽る時だって、それでいいのだと心の中で歓声を上げている者、指切りの場面で、次ぎは鼻を削げ、目玉をくり抜けと煽り立てている者といろいろなのに違いない。いや小生がそうだと言うのでは断じてないが。
 ともかくも終演後、覆いを無理やり剥がされた心や感性に冷たい外気が当たりヒリヒリ痛むのを感じながら、劇場を出て誰もが日常に帰っていくのだ。そこは昨日までの日常とは何かが確実に違っているのだがね。

■準入選■【『THE BEE』(野田秀樹演出)】佐倉みなみさん

■準入選■

佐倉みなみ

 「THE BEE」、この物語にまず浮かぶ言葉は「不条理」である。そして自分の中で既に確立し当たり前となっている善悪、正義、悪、倫理、道徳、それら全ての概念に疑問を抱かせる。

 物語は平凡で善良な市民である井戸が、ある日突然妻子を脱獄犯である小古呂に人質にとられるところから始まる。彼は何も悪いことはしていない。その日は息子の誕生日で井戸は仕事終わりに誕生日プレゼントを買い、家路へ急ぐ家族思いの温厚な人物である。平凡だが慎ましく幸せな生活を送っていた彼は、ある日いきなりその日常をぶち壊される。
 
 井戸も観客もどうして彼がこんな不幸に遇うのかわからず、わからないまま物語は進んでいく。家族を救いたい一心で、警察に、小古呂の妻に、家族を解放してもらえるように小古呂への説得を頼む。しかし警察は井戸の懇願を端から聞く耳を持たない「警察が解決する」という固定概念で固められたマニュアル男。小古呂の妻は自分も井戸と同じ歳の子供を持つ親でありながら、自分のこと以外知ったこっちゃないという自己中心的な女。

 井戸は自分の目を疑う経験をする。誰しもが当たり前だと思う勧善懲悪は、現実では起こらない。ただ無慈悲に事件は起こり巻き込まれていく。頼れる正義など絵に描いた餅、責任や罪悪感など皆無の無関心な当事者。それらは次第に井戸を別人へと変貌させる。そして井戸は自らも犯人の妻と子を人質にとり加害者へと変わる。そしてマスコミや警察を利用しながら、小古呂の妻を強姦しその息子の指を切り、小古呂への復讐と家から去ることを求める。
 被害者でも加害者になったら、加害者と同じ悪である、と思うであろう。しかし、この舞台で一体誰が悪なのであろうか。警察が井戸の懇願に耳を傾けていれば良かったのか?小古呂の妻が当事者としての意識を持ち小古呂の説得に初めから応じていれば良かったのだろうか?しかし、井戸自身加害者になるにつれて実感していく、「俺は初めから被害者を演じることができなかった。だから加害者になるに徹した。そして本当はこれが本来の自分の姿ではないのだろうか」と。ならば初めから加害者の芽を持った井戸が悪かったのだろうか。しかしそもそもこんな事件が起こらなければ井戸は善良で温厚な市民でいられた。ならばこの事件が起こったという事自体が悪であり、井戸を加害者へ導いた運命こそが批難されるべきことなのだろうか。しかし運命など批難できない。ならば一体何が、誰が悪いのであろうか。しかし井戸の人生には何の落ち度もなかった。因果応報とは到底いえない。理不尽である。
 しかし現実とはそもそも理不尽なものではなかったか。観客である私たちはそこでふと気付かされる。井戸という人物は決して舞台上の人物ではないと。現実は正義、悪、善、それらの概念はわかりやすく線引きされてはいない。いつもそれらは表裏一体であり、明暗混沌とした社会で私たちは生きている。そして一歩、何かをちょっと踏み外せば、それらは逆転し、時には被害者が加害者へと変わってしまうのだ。だがしかしその一歩すら明確ではない。朝が昼になり夜になるように、徐々に、ゆるやかに、踏み外してしまうのだ。自分の意思ではなく、見えない周りの、何かの、もしかしたら自分の潜在意識などの力によって。
 この舞台もそうなのだ。井戸も、小古呂も、警察も、小古呂の妻も、そして井戸の運命さえも、そのどれもが加害者であり被害者なのだ。悪も正義も善も全てが混沌と入り混じるこの世界に、果たして正解などあるのだろうか。
 序盤で感じた井戸への憐れみの気持ちは、いつしか井戸への恐怖と嫌悪感に変わっていく。小古呂の妻への嫌悪感や怒りは井戸が変貌するにつれ憐れみと同情に変わっていく。そして次第にわからなくなる。何が正しいのか。
 小古呂の子供も妻も殺してしまい、もう小古呂に送る指がなくなった時、井戸は叫ぶ「次は俺の小指を送ってやる。」もう井戸自身、答えなどない。ただ繰り返される指を送る毎日をまた送り続けようとする。目的は一体なんだったのか?不条理からスタートするこの物語に、正解など用意されず、つきはなされるように演目は終わる。
 被害者が加害者になり、手段がいつしか目的となり、強姦が日常に、切断が当たり前になる。そして段々井戸の人物像が輪郭を失っていく。何もわからなくなる。 
 
 「THE BEE」は恐ろしいほどの湿度と熱く冷めた狂気を身にまとった作品である。しかしその狂気と湿度こそ、私たちが日々現実で対面しているものであり、井戸は私たち自身の投影であると気づく。
 問題提起をされているようで、逆にこの作品自体がもう答えを私たち観客に投げかけているのだ。その答えを私たちはもっと掘り下げ、自分自身の答えを見つけなければいけない。その答えはゆっくりと、朝が昼に昼が夜になるように、形を変え生きる意義へと変わっていく。

■入選■【「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て 】渡邊敏さん

■入選■

「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て

 渡邊 敏

 工場の制服みたいなグレーのワンピースに、赤いスカ-フを身につけた女の人が3人、音楽に合わせて膝屈伸でリズムをとりながら語り、歌う。内容は、一人の女性の子どもの頃の思い出だ。延々三時間、ずーっと子どもの頃のささいなエピソードが語られていく。
 ニューヨークの劇団だそうなのに「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ」という田舎な感じのする名前に魅かれて、ミュージカル「ライフ・アンド・タイムズ」を見た。

 背景に白い垂れ幕があるだけの舞台に、赤いスカーフと、時々赤いボール、黄色の投げ輪といった明るい色が持ち込まれる。軽やかで、ユーモラスな色彩感覚。彼女たちのズック靴も、さりげなくグレーと赤のコンビだ。色づかいだけでなく、この控えめなユーモア感覚は至るところに感じられた。
 たとえば、「ミュージカル」と聞いて、超絶技巧のダンス、驚異的な歌唱力、主役は美男美女・・・と連想していたけれど、この劇団はちがっている。私でもやれそうな、ラジオ体操みたいなダンス。そのダンスも、あまりキマッていない。タイミングが何となくずれていて、それもおかしい。
 主役の女性3人と男性3人は、太っていたり、小柄でやせっぽちだったり、中年でお腹が出ていたり、髪が薄かったりする。「ごく普通」の感じの人たちが舞台にいる。そして、観客を感動させようとか、何かを訴えようというより、自然体な様子で、でも楽しそうに演じている。
 音楽も、感動を呼ぶような類いのものではなくて、親しみやすいメロディーを劇団の人たちがキーボードやフルート、ウクレレ(?)で弾いていた。(それもやっぱり、真剣に、というより手作り感が感じられる、楽しそうな弾き方で。)
 見始めてすぐ、この人たちと友だちになりたいと思った。終わった時には、「ありがとう」と言いたかった。こんな気持ちになったのは、去年静岡の町で見た大道芸以来だ。その、日本語が上手な外人の芸人さんからは、人を喜ばせたい、楽しませたい、愛みたいな気持ちが伝わってきた。「オクラホマ」の人たちからも、そういうあたたかさとユーモアを感じた。

 ふつう、お芝居も映画も、語られるストーリーに意味があって、私たちはその中に入り込むことで何かを得るが、この作品は題材の選択やその見せ方に意味があったように思う。
 観客は、一介の女性の子どものころの思い出を、延々と聞き続ける。語られるエピソードは、両親や、仲良しの友だち、人の家に遊びに行くのが好きだったこと、兄弟で変な名前のバンドを結成したこと、教室でおもらししたこと・・・などなど。電話で語った話を録音して、そのまま台本に使ったそうで、「Um(えーと)」とか「like(~みたいな)」といった口癖が頻出する。台所でコーヒーとドーナツでも食べながら、女ともだちの話を聞いているような気がしてくる。
 ごく普通の人の話を、普通の感じの人たちが、あまりカッコよくなく、でも心がある感じで演じているのが、このお芝居のテーマかと思う。
 「幸せになるには、人よりもきれいでカッコよくて、才能がなくちゃ」という現代の信仰に近い思い込みに、NO!。別にフツーでいいじゃない、と言うより、フツーの人の中にあるすばらしいものに目を向ければ、幸せに生きられる。心のあたたかさとか、大らかさ、ユーモア。一言でいうとヒューマニティー。誰もがもっているものをお互いに贈りあえば、こんなにも楽しい。
 そして、人と接するときは、鎧をまとわずオープンな心になること。女性たちは胸もブンブン揺れちゃっているし、フトモモや、時にはパンツも見えちゃうのは、そういうことだと思う。空気を読んだり警戒したりせず、心を開いて素直に語り合うことができれば、幸福を感じられる。
 それから、人に敬意をもつこと。思い出を語った女性の口癖をそのまま生かしたり、話をはしょったりしないで延々三時間を費やすことの意味は、敬意だと思う。それで、お芝居のラストで、男性が舞台に直立して、訴えるように語っていたあの真剣さも、同じことだと思う。「フツーの女性のフツーの話」は、実はすごいことなんだ、本当にすごいことなんだ、というメッセージ。ヒューマニティーの全面肯定。ヒューマニティーに対して大きなYES!。
 疎外や孤独。この作品は、日本を含め、いわゆる「先進国」で不幸のもとになっているものへのクスリだと思う。でもそのメッセージがあたたかくつつましやかに語られているところに作者の知性が感じられる。それゆえに信じる気になれる。

 終演後、演出家とのQ&Aがあった。バヴォル・リシュカ氏とケリー・コッパー嬢。聞きたい気もしたけれど、この幸福感に純粋にひたりたくて、出てしまった。ちらっと見たケリー嬢はTシャツに短いデニムのスカート、髪にスカーフを巻いたきれいな人だった。パンフレットを見たら、頭に青い鳥や花を飾った彼女の写真があった。すてきだ。また幸せな気持ちになった。

■準入選■【ジュリエットよ、なぜあなたは…?― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―】番場寛さん

■準入選■

ジュリエットよ、なぜあなたは・・・?
 ― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―

番場 寛

 今回のオリヴィエ・ピィの演出には冒頭から驚かされた。ジュリエットはそれを演じる女優があまりに成熟しているばかりか、忠実にフランス語に翻訳されている筈の彼女の台詞を聴いていても、彼女がどうしても14歳の乙女には見えない。両手を大きく広げ、ヒステリックに感情をむき出しに激しく叫んだり、恋心を告白したりする姿は、『ハムレット』のオフィーリアが死なずに年を取った姿を想像させる。
 ハムレットは、自分の母親が夫の死後、すぐその夫の弟と再婚したせいだろうか、純粋可憐なオフィーリアに対し、彼女もやがて性を露わにする「女」になるのだと嫌悪感をむき出しにする。
 しかしこのピィ演出の『ロミオとジュリエット』を最後まで観ていると、ハムレットだったら抱いたかもしれない、その「女」に対する嫌悪感は克服されなければならないものなのだと説得されるほど「女」の成熟さの魅力が表れていた。
 また、畳みかけるかのように強くて、速い発声法は、シェークスピアの台詞の見事さを際立たせていた。「ロミオ、あなたはなぜロミオなの?・・・」という有名な台詞は、今までの他の舞台や映画で何度も聞いていた筈なのに、今回の女優の口からそれが発せられるとき、それは恋の自己陶酔を超えて、彼女とロミオの置かれている状況、つまり彼が自分の家が対立しているモンタギュー家の息子であるという状況への攻撃的な問いであると聞こえる。 

「移動式バルコニー」という舞台装置と一人二役
 舞台装置は驚くほど簡素であった。演奏は舞台上に置かれた一台のピアノのみで行われているだけなのだが、それも移動させられバルコニーに上がるときの踏み台とされ、そこを登場人物が上がる仕草がそのまま鍵盤を鳴らすという工夫もされていた。ロミオが人目を忍んでジュリエットに会いに行く場面で使われるバルコニーは横の階段で上がっていくようになっており、それは極めて効果的に機能していた。つまり、舞台装置は観客の想像力により様々な場を表すよう移動し、据えられる。
 互いに愛を誓って「婚姻」を交わしたその場は、そのまま最後に毒を仰ぎ、命を終える場ともなり、赤みがかった透明なスクリーンが降りることで、他の人物が死者を見つめる「墓場」ともなる。それどころか黒いそのバルコニーの壁はチョークで登場人物が言葉を記す「黒板」の機能をも果たしていた。発語されたとたんに消え去るフランス語の台詞やそれを簡略化して映し出される字幕も数秒か数分後には消え去るのに対し、書かれた文字として舞台に存在し続ける言葉は観客にその意味を考えさせるに十分な時間を与えた。
 そのうちの一つはLa nuit est blanche et noire(夜は白くかつ黒い)であった。これは「夜は遅すぎる。いや、むしろ早すぎる」という台詞に対応するのだろう。「夜」と「朝」は連続しており、いつから「朝」なのかは曖昧であるのに言葉になったとたんに明確に分節されてしまう。この演劇全体が「夜と朝」と同様に「愛と憎しみ」、「生と死」等の対立によって成り立っていることが分かる。
 そのシェークスピアの戯曲そのものが持っている、対立するものの転換という技法は、二人の登場人物を一人の俳優が演じるという演出にも見られる。モンタギューと息子のロミオを同じ俳優が演じるのは、家系を際立たせるためだと理解できても、ティボルトが死んだとき、喪服に身を包みその死について語る伯母であるキュピュレット夫人を同じ男の俳優が演じたときには驚かされた。つまり自分の死を嘆く役を自分で演じていることを観客に見せているのだから。ここで顕著なように、ピィは人物のリアルさではなく、あくまでシェークスピアの台詞を最大限に生かすことに演劇のリアリティを求めているのだと分かる。

「死は存在しないLa mort n’existe pas」
 舞台装置の壁にこの「死は存在しない」という言葉が書かれるのは二人の主人公が死を迎える最後の場面である。これは普通だったら二人は死んでも、愛は生き続けているという意味に取るべきなのかもしれないが、なぜかこの言葉を見たとき、J.ラカンの「性関係はない」という言表を思い出した。
 ラカンの「性別化の式」と呼ばれる図式では、男は「欲望の原因対象」と呼ばれる「対象a」を求め、女は「ファルス(記号となった男性性器)」と「<他者>に欠如しているシニフィアン」を求めているという点で、男女では欲望の向かう対象が異なり、その欲望は互いに交差することはない。ではこの劇のロミオとジュリエットの間には、「性関係」はあるのだろうか?
 婚姻はしても二人にもやはり「性関係」はないと思う。最初バルコニーで逢って二人が接吻をするとき、それを「罪」と名づけ、口で相手の「罪」を自分に戻すと言い、接吻を繰り返す。その口を通じての「愛」の交換は、敵を欺くために毒を仰いだロミオを見たジュリエットが、そのロミオが飲んだ毒を自らに移そうとする仕草となって反復される。
 「~はない」という言表は「~はある」を前提としておりそれに抗い、その不可能性の追求という人間の夢を表すものであり、演劇の本質そのものを表している。

■準入選■【「人形」から「人間」へ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(宮城聰演出)を観て― 】番場寛さん

■準入選■

「人形」から「人間」へ
 ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を観て―


 番場 寛

 もうかなり昔にパリでその頃評判だったピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』を観たときとは違い、今回の公演では最初から最後まで退屈する瞬間はなかった。SPACの劇では、その前身である「ク・ナウカ」のときから、演ずる人が語らず演技だけを行い、後方に座った人が台詞だけを言う演出は文楽を思わせる。演劇は普通どれだけ演技であることを忘れさせ、リアルな言動であるかのような錯覚を観客に与えることができるかを目指しているのに、この劇団での、俳優が生命を帯びた人形のように動くさまは、演劇の歴史を遡り、演劇の原型そのものに迫ろうとしているかのようで新鮮であった。登場人物が、いかにも作り事であり、絵空事であることがこれ見よがしに演じられている様は、そこで日本の神楽や祭りの儀式を観ているかのような臨場感を与える。 
 今回の『マハーバーラタ』では、昨年鳥の劇場にて上演された『王女メデイア』よりも更に複雑な構造をとっていた。神々なのだろうか、面を被った人物たちと、動物の面を被った人物、張り子の動物たちなど、まるで人形が人形を使っているかのような重層構造をとっていた。
 なぜ演出の宮城聰はこうした「作り物」的な演出を意識的に推し進めているのだろうか?その演劇的効果とはいったいどういったものなのだろうか? それはこう思う。いわゆる「劇を演じる」という意志と行為を可視化することで、「演ずる」という行為を隠すのではなく、逆にそれを露わにすることによって生まれる感動を狙っているのではないか? ちょうどそれは作物の豊穣や民衆の健康と安全を神に願って行われる宗教的儀式に似ている。実際、能も大木の前で演じられ神に捧げられたことがあると能楽師から伺ったことがある。古代ギリシアで、劇が演じられたときもこんなだったのだろうか?

物語の形態学
 さて、劇の内容についてはどうだろう。美しい妻と二人の子を授かり、国を支配していたこれ幸せの絶頂の王がふとした気の迷いから賭博に浸り、自分の持っていたすべてを失う。自分のふがいなさに嫌気がさし、自分と一緒にいては不幸になるばかりと考え、眠っている妻の服の片袖をこっそり切り取り、それを持ったまま流浪の旅に出る。様々な変遷の末、賭に勝つ魔力を授かり、最後はまた全てを取り戻すという波瀾万丈ともいえるし、失ったものを再び取り戻し、離別した主人公たちが再会するという点だけみれば、ごく単純な話にも思える。ロシアの昔話を分析し、すべての話を登場人物の機能に分解し、その構造が全て人物の31の機能の組み合わせによって成り立っていることを証明したウラジーミル・プロップの公式はおそらくこの『マハーバーラタ』にも当てはまるであろう。ナラ王が最後に妻と再会し、賭け事に勝ち国を取り戻すことは、「発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される(定義は、「不幸・欠如の解消」。記号は、K)」(『昔話の形態学』)という機能に分類できるだろう。
 ではこの宮城聰の演出の素晴らしさはどこにあるのであろう。一つは打楽器の演奏者の音だけでなくその身体性までもを観客に披露したことであり、台詞を語る人と演じる人を分けるだけでなく、時には演じる人までもが自分自身の台詞を発するという普通の劇で行われている当たり前のことが、今回の劇では驚きとなって感じられる。

野外劇場という「場」の特異性
 演劇では、いったいどこまでが劇場なのだろう? 舞台は勿論だが、劇場の建物、それを取り巻く環境全てであろう。野外ステージの場合は空の色、暗くなってからは月の光やライトを当てられた木々、冷たい夜風、虫や鳥の鳴き声、客席の赤ん坊の泣き声さえも、まるで京都の庭が採用している「借景」のように、観客の反応までも含めたその場で起きていること全てが装置として機能していた。この劇の本質は、張り子の動物や仮面など、これみよがしの「作り物」と、人形のようにうごく俳優と、それらを説明する「語り」を通して、「ナラ王」の物語を観客自身が完成させようとする想像力そのもののうちにあるのだと思う。
 美加理の演ずる美しい王女は眼が大きく表情を変えないか、変えていても見えないように演出されており、見えない人形遣いによって操られているかのような動きに見える。そうした語りの中で動く人形が突如として生々しい肉体を露わにしたのが、没落したナラ王が彼女のもとを去るとき、名残として眠っている彼女から切り取り持ち去る服の片袖を切り取ったときである。白く肉感的な彼女の腕がさらされたとき、人形としての可愛らしさ、動きは変わらないまま突如として彼女は人形から人間の女へと変身した。それは今回の作品で、「語り手」とは別に王女を演じる美加理自身の口から自らの台詞が発せられた演出とも重なる。「形態学の公式」に当てはまる機能を果たす人形の物語が、一挙に人間の物語へと変貌する瞬間をも見せてくれた。

 (参考 ウラジーミル・プロップ 北岡誠司他訳『昔話の形態学』 水声社)