■準入選■
『この世でいちばん怖いもの』
大野博美
今年のふじのくに⇔せかい演劇祭のトップを飾った公演。
会場はグランシップ広場の芝生の上。そして人形劇。正直、注目度は決して高いとは言えない。
幸い、時間が取れたので、何の予備知識も(期待も)なく、当日券にて観劇。
全くの人形だけの劇というわけではなく、操り手の美男美女が時には出演者となる。
また、客いじりも楽しく、言葉の壁を超え、最前列の子供達は大はしゃぎしていた。
ポリシネルは、伝統の人形劇、、、だそうである。コメディア・デラルテのキャラクターの一つであるとのこと(と言われても何のことやらさっぱりわからないが…)。失われつつある文化の一つではあるらしい。
彼ら「ラ・パンデュ」という美男美女のユニットが、その文化をこの静岡に運んできてくれたのだ。
「さ、ポリシネル!みなさんにごあいさつを!」
しかし、面倒臭がりのポリシネルは、寝そべったまま。捕まえようとすると逃げ出した!
なかなか、初っ端からメタ設定である。ポリシネルはその後、逃走。欲望の赴くまま、悪事を繰りかえす。
そのアクション、ドタバタがとても楽しい。人形劇であることの楽しさを存分に味わわせてくれる。観客も巻きこんで、ステージと客席が一体化していく。言葉の壁はほとんど感じない。通訳の合いの手の絶妙さもあるが、子供達が喜ぶポイントは万国共通なのだなと、改めて感じた。
ポリシネルにとってこの世に恐れるものは何もない。女房子供も平気で捨て、地位も権力も全く意に介さない。
演者が子供達に聞く。こんなポリシネルは、この後どうなると思う?
『警察につかまるー』
『牢屋に入るー』
実はおまわりさんとの闘いは劇中すでに終わっている。
これ以上、どうしたらいいのか、子供達の口から出てくることはなかった。
、、、でもそれでは話が進まない。もう少し年齢が上だった女の子が
『地獄』
と、小さな声で答えて、やっと話が進む。
地獄というより『死』であったのだが。
とうとう、ポリシネルに最強の刺客が。それは死神。極悪非道、冷酷無比、悪徳三昧。こんなやつは、死ぬしかない。死んで地獄へ堕ちろ!しかし、ポリシネルは『死』をも全く恐れない。平然と死神と闘っていく。
この場面は、この人形劇自体の山場でもあり、死神がぽこんぽこんと増殖していくところなどは、大盛り上がりだった。
結局、ポリシネルは「死」をもはねつけ、どこかへ逃げ去ってしまう。そうやって、何百年も生き続ける奴こそが、ポリシネルなのだ。
こういったアンチヒーローが、仮面劇や人形劇のキャラクターとして古くから存在するだろう事は容易に想像できる。子供向きのという看板を上げながらも、時の権力者への、皮肉や反抗心などを込め、不平不満のガス抜きにしたり、あるいはお祭りの日の無礼講の一つとして、、、
本作を観劇した時、一番驚いたのは、子供達が最後に待っているものとして「死」(地獄)という概念を答えられなかったことだ。死の概念なんて言えば、そりゃ、難しいに決まっているが「悪いことしたら、罰が当たる」的な、自分からみたら当たり前の概念が、どうやら、小さな子供には通用しないのではないかということだ。
「今時の子供達」は、死や地獄が怖くはない。一番怖いのは、警察に捕まることだったり、クラスメイトからいじめにあうことだったりする。
本当に死が怖くないのだろうか?正直なところ、そうかもしれない、と答えざるを得ない。核家族化、医学の進歩によって、人の死は、日常生活から遠いところへ行ってしまった。死は「怖くない」というより「全く知らない、縁のないもの」になってしまっているのだ。
死を恐れない人間は、警察を恐れない人間よりも、ずっとタチが悪い。何が正しくて何が間違っているかなど、為政者一つで、どうにでも変えられるのだ。ただ一つ、死ぬことだけは、どんな世の中であっても避けることができない。これを恐れ、またその延長線上にある(かもしれない)地獄を恐れ、最後の最後の一線だけは人間としての尊厳を持って死を迎えたいというのが、普通だったような気がするのに、、、
伝統の人形劇としてのポリシネルは、忘れ去られ消えゆく寸前だったという。古い文化が廃れていくのは、東西問わず深刻な状況なのかもしれない。しかし、ポリシネルはしぶとく生き残っていくだろう。いやむしろ華々しく復活していくかもしれない。
なぜなら、死をも恐れなくなった、この人間の世の中は、地獄よりももっと恐ろしいところなのだから!
そして、もう一つ。
SPACの演劇祭が招聘する人形劇は、正直なところ、あまり注目度は高くない。けれども、ここ数年、毎回観ているけれど、どれもこれも素晴らしいモノばかりである!
「(ふじのくに⇔せかい演劇祭では)人形劇は外せない!」
と、本気で訴えたい!