■準入選■
「脱線!スパニッシュ・フライ」を観て
渡邊敏
一年に何回か、「私の知らないところで世の中は進歩していて、人間は進化してるんだなあ」と感じることがある。ドイツの劇団、フォルクスビューネのこのお芝居も、見ていて、うれしいため息が出た。
富裕な家の一人娘の恋にからんで縁談がもち上がる。そこに父親の隠し子疑惑や、花婿候補の若者と隠し子の取り違え、娘とその従姉妹の取り違えが起きて、次々と騒動が起きていく喜劇。「ドイツの芸術=固い、深刻」という先入観は冒頭から裏切られて、素早いストーリー展開と飛んだり跳ねたりのアクロバティックな動きの楽しさにひきこまれた。映画ならCGで作りそうなアクションも生身の俳優が演じている。すごい身体能力だ。
こういうお話では脇役の召使いとか、家にしょっちゅう出入りする友人や親戚の活躍(失敗)がストーリーをとんでもない方向へ進めていく重要な要素になるはずで、主人夫妻と娘に加え、入れかわり立ちかわり登場する弁護士、プレイボーイ、親戚等々、が計略と勘違いで話を混乱させていく。
サーカスやアニメーション、漫画でよく見た動きが出てきて、懐かしく、楽しい。舞台奥でトランポリンを使ってぴょんぴょん跳ねている人物や、床に勢いよくスライディングする紳士には、お尻にロケット噴射がついて飛んでいく昔の漫画を連想した。ご主人がファイルを隠そうとして慌ててクルクル回ってしまうのはファイルを使ったジャグリングのよう。
クラシックさと新しさの混じったコスチュームも楽しい。奥方や令嬢の、18世紀の貴族風の垂直に盛り上がった巻き髪。ふくらんだスカートのドレス。オレンジ色の髪のメイドは、メークも表情もハード・ロックな感じ。「ロッキー・ホラー・ショー」(映画の)にあんな感じのメイドがいたよね ?と思う。詳しい人が見たらもっと色々連想するものがあるだろう。
舞台装置は、一枚の巨大な絨毯が敷かれたのみ。その絨毯で舞台奥に土手が作られ、その手前にはトランポリンが隠されている。絨毯の土手はぶつかってすべり落ちたり、座ったり、身を隠す場にもなる。トランポリンは空中に飛び跳ねる他、舞台前面にスライディングする時のジャンプ台にもなる。ミニマムで多機能で、なお、絨毯の柄がクラシックな雰囲気を保っている。
そして、緊張と空白の「間」。すべての人が静止している中、奥方の目の玉だけが動くシーンが素晴らしかった(うまいなあと思って見ていたら、この劇団の看板女優なのだそう)。それから、後ろから忍び寄るメイドの音無しの動きと顔。細く描いた眉の上げ方や舌の出し方まで、完璧と感じる。
この舞台では、動きの速度や長さ、顔の筋肉の動きまで演出されているようで、演出も素晴らしいのだが、それを実現できる俳優も素晴らしい。難度の高そうなアクロバティックな動きでも、速さもリズムも完璧、と感じる。このリズムだよね、この速さですべり落ちなくちゃ、と満足する。台本は「楽譜」なのでは、と思うほど、すべてのセリフと肉体の微かな動きまで、見事にオーケストレーションされている。
1913年に書かれたというこの喜劇の眼目は、笑いの中に、金持ち・道徳家・純情な娘・プレイボーイ、といった人間のタイプをカリカチュアにして見せることだったと思うが、今の世では風刺というより、人間の可愛さを感じさせてくれる。社会の価値観や家族のシステムが安定(悪く言えば固定)していた時代の大きな家に、ひっきりなしに人々が出入りして騒いでいる様子には、郷愁のような憧れも感じる。
この舞台では後半、一箇所、「喜劇」向きとは思えない、美しくも冷たい音楽が流れるところがあった。それから、昔の愛人「スパニッシュ・フライ」だと勘違いされた奥様が逃げ出して、舞台奥の絨毯の土手に何度もぶつかってすべり落ちる様は、ガラス窓に当たって死んでいくハエのようだ。こういう「冷徹さ」が潜んでいるところが、奥行きと言うか、この演出家の知性と思った。
去年から「ふじのくに⇔せかい演劇祭」を知り、去年も「世の中は進んでいる」と感じ、うれしくなった。今年もまた、とても精緻に鍛錬され、なお温かみのある舞台を見て「やっぱり世界は進歩している」と感じた。年に一回と言わず、もっとたくさん見られたら、と思う。