■準入選■
番場寛
この劇は予約しようとした時点ですでにチケットは売り切れており、キャンセル待ちも多く、もしキャンセルが出たとしても観ることはほとんど不可能だろうと告げられて観ることをあきらめていた。しかし『Waiting for Something』を見終えたとき、次の『黄金の馬車』の上演までの時間を待つことにも耐えきれず、もう一度頼み、キャンセル待ちの札を手にすることができた。観られる希望は殆どない状態は、晴れるとも降るとも予想できない梅雨空そのものの心境であった。この劇を観ることと観ないこととで自分の人生の何時間かが変わることは明らかだったがそれが何かは分からなかった。
「楕円堂」と名づけられた部屋に通されたとき、中は完全に近い真っ暗闇であった。劇が始まると徐々に白い光が舞台の半分ほどの半楕円形の部分に均等に当てられるが、ほのかに明るいというだけで決してそれ以上明るくはならない。そこに舞台の左の袖から大人の背丈の人物とそれに導かれる子供の背丈の人物が現れる。舞台が暗いせいか、その二人の人物は静止したように見えるが、時間の経過とともに舞台中央へと確実に進んでいることに気づく。
やがて舞台中央で子供の方が仰向けに横たわり静止する。戯曲で確認するとどうやら、舞台のほのかに明るい光を当てられた部分が家の中で、客席側の光を当てられていない部分が、老人とよそものがその室内を覗いておりそこに他の人物が加わってくる庭先を表しているのだと分かる。すると横たわって動かない子は、その家で最後まで目を覚まさず眠り続けるその家の幼児ということになるが、それは同時に死んだ娘をも暗示し、レジの言う「生と死との本質的な共存を生み出し」ているのだと思う。
戯曲を読むと、これは戯曲で完全に自己充足しており、上演しなくても完璧な世界を造り上げているのではないかという印象を受ける。
ではこれをあえて上演することにレジはいかなる意義を見出したのであろうか? この劇の上演の舞台と装置の設定にその狙いが窺える。「楕円堂」というそれこそ「室内」の暗闇に置かれた客席に座って観る観客は、一方で庭先にいる人物たちに同一化し家の中を覗いているにも拘わらず、人物の動きを目で追うとき、円弧上に並んだ客席をも見ることになる。そのときふと思うのは、その瞬間自分たちのいる場も「室内」であり、その室内をのぞき込んでいる他者の眼差しの可能性を思う。
この劇が上演中、まるで夢幻のさなかにいるように感じられるのは、照明や人物の抑制された動きのせいばかりではない。極めて衝撃的な演出がなされていることにすぐに気づく。舞台に人物が徐々に増えても、明かりはほの暗いままで顔を識別するには至らない。舞台前方の暗いままの部分に人物が移動して台詞を語っても殆ど識別できない。これは人物の顔の表情や細かな仕草で表現する劇ではないことが明確になる。登場人物の輪郭と男女の区別は分かるが、顔は袖口近く以外では識別できず、観客はほの暗い闇の中で必然的に俳優の声に意識を集中させることになる。
ところがその発声も独特な演出が施されている。極端に抑揚を押さえ、不自然に朗読するような発声、あたかも他人の物語を語っているかのようなゆっくりとした発話。記憶を探ると、三浦基の演出する「地点」の発声の一つの発声の仕方に似ていると思い当たる。
前に、唯一観たレジの演出である『彼方へ 海の讃歌』という作品では、たった一人の俳優が、力強くずっとしゃべり通した。殆ど動きのない俳優の発声は、言葉だけで観客の想像力に働きかけ、情景を十分に喚起させる力を持っていた。そのときとは異なる、今回の発声法が採用された理由は何なのであろうか?
三浦は自身の演出する「地点」の俳優の通常の言語の分節を異化した発声法について問われたとき、「自分にはこのようにしか聞こえないからだ」と答えた。確かに感情を発露した発声に慣れた耳には最初奇異に聞こえたとしても、普通の聴き方から自由になると、通常の発声より明瞭に聞こえ、意味に到達していることに驚く。それと同じくレジの演出した今回の発声も、そのおかげで人物の言葉はより明瞭に観客に届く。しかし薄暗い舞台のせいでそれぞれの人物は言葉の出所としてのみの価値に限定され、静止した影絵の人物から発せられているかのような印象を与えかねない危険性もある。そのためゆっくりとだが確実に人物はその位置を変え、その場にいる人物から発せられていることを絶えず意識させる構造となっている。
メーテルランクが人形劇として書いたと伝えられている通り、台詞は生身の人間の感情の発露としてではなく、状況が分かるような言葉として発せられており、こうした発話の構造は、謡いのような抑揚はつかないが能の発話の仕方に似ていることに気づく。
ほの暗いと言うべきか、ほの明るいと言うべきか迷うほどのまるで光の粒子が見えるほど少ない舞台において、語りも動きもゆっくりと進行する舞台は、観ている側の時間と身体感覚を確実に狂わせ、演劇の時間へと同一化することに成功していた。
暗闇にほの白く浮かぶ夢幻の世界で繰り広げられた「生」と「死」の淡いの中に投げ込まれたときの世界の厚みは実感として今も残っている。
(参考図書 モーリス・メーテルランク著、倉智恒夫訳「室内」、『フランス世紀末文学叢書XII』所収、国書刊行会、1984年。)