劇評講座

2014年2月22日

■入選■【『Hate Radio』ミロ・ラウ脚本・演出、IIPM製作】歴史の共犯者になる重み ――ミロ・ラウ『Hate Radio』における断絶と包摂――神田麻衣子さん

■入選■

歴史の共犯者になる重み
――ミロ・ラウ『Hate Radio』における断絶と包摂――

神田 麻衣子

 大規模な残虐行為のあと、わたしたちは当事者の語りを求める。1994年4月、ルワンダで実際に何が起こったのか。ジェノサイドを生き延びた人々の声は、報道のことばや映像の隙間を埋め、遠く離れた場所に暮らすわたしたちに戦慄をもたらす。では、なぜこんなことが起こってしまったのか。もちろん、これまでに歴史的、政治的、経済的、さまざまな観点からその原因は語られてきた。しかしながら、それらの多くは因果関係を説明するにすぎず、目を覆うようなその残虐性を説明してはくれない。その核心に近づくには、もう一方の当事者である加害側の声を正面から受け止める必要があるのかもしれない。隣人の殺戮を扇動する声とそれに共鳴する普通の人々の狂気。『Hate Radio』でわたしたちがイヤホンを通して聞くことになるのは、まさにその声だといえるだろう。
 『Hate Radio』は通常舞台で期待される直接性や相互作用を拒絶したところに生起する3部構成の劇である。劇の冒頭、舞台上のスクリーンには、加害、被害双方の当事者によるジェノサイドについての証言の様子が映し出される。続いて演じられるラジオ放送の場面から、5人の登場人物が舞台上に現れるが、彼らがテンポよくしゃべり、リスナーと電話で会話し、音楽のリズムに身を任せるのは、壁によって客席と完全に隔てられたDJブースの内部である。先述の通り、彼らの声はイヤホンを通じてしか個々の観客のもとには届かず、唯一、DJトークの合間に流される音楽だけが会場全体に響く音となる。
 断絶や間接性を物理的に前景化するこの劇において、DJたちと観客とが共有しているものがあるとすれば、それは時間ということになるだろう。放送中に幾度か挿入される「番組が始まって何分経った」というお決まりのタイムカウントによって、観客は劇中の時間へと引き寄せられ、番組の一聴取者として包摂されていく。しかしながら、2013年を生きるわたしたちにとって、登場人物たちとともに劇の時間を生き、カタルシスを味わうという伝統的な観劇の楽しみはもはや残されてはいない。この経験は居心地の良いものでないばかりか、むしろ不快とさえいえるものである。なぜなら、フトゥとトゥチ、その民族的境界は絶対のものではないにもかかわらず、一方をゴキブリ呼ばわりし、居場所を暴き、襲撃や殺戮を奨励する発話が、単なるヘイト・スピーチにとどまるものではなかったという歴史的事実を、わたしたちはすでに知っているからだ。それゆえに、こうした「殺戮指令」がまるでスポーツ競技に対する激励のように、熱を帯びつつも快活なトーンを保ちながら流される光景を前にして吐き気を催さずにはいられない。
 もちろん、これはラジオ(の疑似体験)なのだから、イヤホンを耳から引き抜いて殺戮指令を聞くのを拒絶することは可能である。だが、それでもなお劇場には音楽が響く。音楽市場のグローバルな拡大は、ある曲、あるミュージシャンを世界中の人々の生活に同時に埋め込むことに成功した。日本でもルワンダでも、ニルヴァーナは90年代初頭における共通の音楽経験だといえよう。そうであればこそ、「レイプ・ミー」が劇場に鳴り響くとき、伝説的なバンドによる問題含みの一曲として音楽を消費していたわたしたちの日常と、現実に迫りくるレイプと死の恐怖のただなかに陥れられた人々の時間が交錯する。同時代を生きる者として、わたしたちはルワンダのジェノサイドと完全に隔絶されているわけではないのだ。しかしながら、舞台と客席との物理的な断絶は、いま、ここでの介入の可能性を拒絶するだけでなく、過ぎてしまった出来事に対しては何の介入もできないという、時間の不可逆性をも象徴する。あのときわたしたちは何もできなかった/しなかったし、今回も何もできない。断絶と包摂のはざまで、わたしたちはなすすべなく歴史の共犯者となるのだ。
 ラジオ番組の放送が終了すると、舞台上のスクリーンでDJたちの「その後」が知らされる。30年以上の懲役刑、終身刑、国外脱出による事実上の「無罪放免」。続く場面でスクリーンに映った人が言う:「殺すことが目的なら効率的に殺せばいい。なぜ残虐な方法を採ったのか、それがわからない」。そう、たしかにこの劇は、このジェノサイドについてわたしたちが本当に知りたいこと――DJたちを、そしてラジオの聴取者たちをそれほどまでに駆り立てたのは何だったのか――について答えてくれはしない。だが、もし番組の中にそのヒントがあるとするなら、すべての行為はレジャーだったのだといえはしないだろうか。結果ではなく、過程を「楽しむ」。ラジオから発せられるイベント情報にもとづいた、隣人を巻き込んでの苛酷なレジャー。翻って、2013年の日本は果たして94年のルワンダとそれほど隔たっているだろうか。歴史の共犯者になる重みは劇場の中だけでいいはずだ。