劇評講座

2014年2月22日

■準入選■【『Hate Radio』ミロ・ラウ脚本・演出、IIPM製作】『マインドコントロールへの抵抗』柴田隆子さん

■準入選■

マインドコントロールへの抵抗

柴田隆子

 『Hate Radio』は、ルワンダ虐殺を助長したとされるミルコリンズ自由放送(RTLM)の生放送場面を「再現」したドキュメンタリー演劇である。ドキュメンタリー演劇では、現地調査やインタヴューなどで具体的な記録や証言を集めて、現実に起こった社会的出来事を演劇的に再構成するが、それは必ずしも本当の出来事そのものの再現ではない。あくまで実際に起きた出来事の一側面、それも演出ミロ・ラウのパースペクティヴを通した、彼が「芸術的真実」と呼ぶ美的再構成に過ぎない。とはいえ『Hate Radio』は、ルワンダの虐殺でメディアが果たした役割を可視化し、虐殺がなぜ起きえたのか、ヘイトスピーチを流したラジオ放送がどうしてそのような大きな影響力をリスナーに持ち得たのかを明らかにしている。これは決して過去の出来事として安穏として見る舞台ではない。今、ここで起きているかもしれない出来事の再現なのである。
 舞台上のスクリーンには4人の人物の映像が映る。開演時間が近づくと、静止画像だった映像がわずかに動きだし、開演とともにルワンダ虐殺当時の自分自身の出来事を語り出す。その中で、RTLMのパーソナリティだったと証言した人物が登場人物のひとりとなる。舞台上にはラジオ放送局のブースが設置され、中での会話はヘッドホンを通じて直接客席の一人一人に届く。観客はリスナーとしてラジオ放送を聞き、舞台上で展開されるそのオン・エアーの場面を目撃するのである。
 生放送されるパーソナリティの会話やDJの音楽はラジオを受信するヘッドホンから直接耳に届く一方で、その現場である放送局内の様子は、透明な壁を通して観客の目にさらされる。直観や情動に訴える聴覚的刺激に対し、舞台上と客席という空間的距離を伴う視覚情報は批判的な視座を取りやすい。この同時に体験する聴覚と視覚の感覚受容のずれが、集められた真実の断片からなる「芸術的真実」を批判的に見る観点を提供する。
 「芸術的真実」の中心となるのはRTLMの虐殺扇動の実体である。ニュースやクイズが軽妙なトークとノリの良い音楽と共に流され、ちょっと聞いただけでは普通のラジオ番組と変わらない。だが、コメントのそこここにツチ族に対する憎悪があふれ、リスナーからはツチ族の所在を知らせる情報が寄せられ、送り手と受け手双方で愉快なキャッチボールのように悪意を膨らませる。音楽の果たす役割も大きい。ツチ族を殺そうとしないフツ族は殺せと歌う「フツ族を憎む」のような直接的同調圧力を生む曲だけでなく、ニルヴァナの「レイプ・ミー」やリール・トウー・リアル(Reel 2 Reals)の「I like to move it」などが、ツチ族女性への直接的な暴行を示唆する曲としてかかる。単純な歌詞を軽妙なビートにのせて繰り返すポピュラー・ミュージックの、恐ろしく単純で効果的な使い方である。
 一方、視覚情報においては、こうしたパーソナリティ自身も軍の統制下にあったことが兵士の存在で示される。扇情的な言葉を吐きながら時に兵士に対してもふざけようとするパーソナリティたちに対し、兵士は姿勢を崩さず無関心に彼らを監視する。何も発話しない兵士は異質な存在としてラジオ番組の外側の枠組み、すなわち政府軍の存在を視覚的に示す。パーソナリティの一人は時折、客席に面する透明な壁に向かって苦悩ともとれる視線を走らせる。これも「芸術的真実」なのか、それとも美的技巧なのか。
 大統領殺害のニュースを受けて、このRTLMのプロパガンダ放送は扇動の度合いを増したという。そこにあるのはフーコーのいうパノプティコン的監視社会であり、その負の連鎖の持続性である。特定の人物や組織が現実の裁きの場では裁かれるが、実際の出来事ではそれほど事は単純ではない。兵士に象徴される政府軍は確かにツチ族虐殺を周到に準備し実行に移したが、RTLMとリスナーとの間で起きていた出来事はそれだけに還元できない。その意味で、この舞台は一定の「真実らしさ(Authenticity)」を示していると言える。だが、これは果たしてラウのいう「芸術的真実」なのだろうか。
 たとえその素材は実際にあった事実の断片から集めたものだとしても、編集や演出によってさまざまに異なる「真実」が「再現」できることを日常生活の経験から我々は知っている。舞台で再現されているRTLMの放送、そこでのパーソナリティのトークやDJの選曲、あるいは電話での応対は、その意味ではやはりフィクションである。演じた俳優たちの中には、確かに当時ルワンダにいた人間もいたが、虐殺を生き残った人間が実際に舞台に立ったグルポフの『ルワンダ94』とは異なり、舞台で再現されていた「登場人物」はあくまで「寓意的形象」である。しかし、ラウやIIPMの姿勢は、フィクショナルに構築した出来事や人物が必ずしも真実から遠いというわけではなく、この寓意性にこそカオスの中にある「真実」に届く道筋を見るものである。ルワンダの虐殺という過去に起きた社会的出来事の「真実」を把握するのに、この手法が有効かどうかは議論の余地があるかもしれない。しかしながら、演劇も含む、今日のメディアによるマインドコントロールを異化し、距離化して、観客それぞれが自分なりの見方を考える契機としては重要だといえるだろう。