2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第1回は、この公演にドラマトゥルグとして関わって下さった、劇作家の佐々木治己さんです。
■依頼劇評■
茶番が繰り返されるとき
佐々木治己
「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、あたえられ、持越されてきた環境の元でつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメール十八日』伊藤新一、北条元一訳、岩波文庫、1954年)
二度目の茶番が一度目の悲劇の内実を露呈させることになる。『此処か彼方処か、はたまた何処か?』(作:上杉清文/内山豊三郎)を上演するという極めて演劇史的な考察を行うことは、演劇における懐古趣味へと向かうことであってはならない。演劇において、当たり狂言は繰り返し行われ、二度目の茶番による歴史化を無化する形で、三度、四度と行われ、職能的領域、趣味的領域における経験となっていく。上演を見るとき、自身の観劇、視聴など経験や、人生経験に即し、目の前で行われたことを理解し、または感じ、観劇という行為が遂行される。自身の経験が“当然”であるように、目の前で上演されているものも“当然”の経験とされていく。上演は、すでにそこにあるかのように行われる為に、上演されたものが“当然”そこにあるものかのように見てしまう。いや、確かに上演はあるのだ、そこに。そして、すぐ目の前にある上演、すぐ目の前で見た自身は、上演と直接的な関係を持っている、というのが、上演の“当然”なのである。
当たり前のことにも関わらず、大岡淳演出『此処か彼方処か、はたまた何処か?』上演では、この“当然”なことが、気になってしょうがない。上演があることは“当然”ではないか、情報も告知され、日時場所が指定されて執り行われているではないか。俳優は決まった時間になると、衣裳を着て、台詞を語っているではないか。そんなことは“当然”じゃないか。そして、“当然”によって導かれた形式を判断することも“当然”ではないか。“当然”ではない上演はない。上演は、与えられた環境の中で、持ち越されてきた環境の中で行われるのだ。そう、パプニングは何をしても良い、ということではない。ある枠内における秩序立った暴動がハプニングの意である。ハプニングは既に“当然”の中にある。しかし、ハプニングは、その“当然”さに問いを投げかける契機として行われる。上演の細部に宿るのではない。上演が表し得ないものを喚起させることがハプニングであり、茶番による歴史化なのだ。
『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は、すでに、二度行われていた。一度目は、1967年、発見の会の研究生たちによる一日のみの発表会として、二度目は、翌68年、同劇団の本公演として。そして、テキストとして残るものや、石子順造氏をはじめ、上演について語られたのは、二度目の本公演とされた方である。発表会が面白かった為、本公演にしたのではないか、という“当然”さが、本公演で数日間続けられたことへの言及すら奪ってしまう。本公演の『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は、“当然”の中で行われたのではないか、という疑問が起こってくる。このテキストが何故書かれたか、何が書かれているのかということよりも、テキストが持つ斬新さ、軽妙さ、いい加減さという扮装。こうしたことが、繰り返されることで、また、手法を真似ることで、スタイルとして“当然”になり、にやにやと手を叩いて喜んで享受することが出来るという“当然”が引き起こす安堵の中で。
『此処か彼方処か、はたまた何処か?』本公演の“当然”さの影響によって、コラージュの手法、筋の分断、説明のない場面設定、引用文の脈絡を無視した言葉の引用が踏襲され、今日の下劣さを昨日の下劣さによって正当だと思い込むように、同時代の若者文化と癒着しつつ、権威的な文化への抵抗を茶化し置き換えることで、自身を権威化するサブカルチャーへと変貌することになるのは、想像に難くない。発見の会本公演という二度目の茶番によって、研究生発表会として行われた『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は扮装となった。そしてその後に続く数多の演劇上演がその扮装を使い回した。
大岡演出による上演が、サブカルチャーの源流を発見、懐古するものに堕すようであれば、即座に疑義を差し挟む予定でいた。上演台本の妄語のように書かれている手軽に消費出来ない台詞の意図、意味を汲まずに、手法としてのみ継承するのであれば、上演する必要がない、と。茶番を繰り返すときに浮かび上がる“当然”への問いを掴まなくてはならない。ところが、これは悲劇を茶番にしたわけではなかった。茶番自体を問う上演だったのだ。悲劇を茶番にすることで行われる歴史化を分析する手つきでは、今回の上演で喚起されたものを掴むことは出来ない。
「歴史というものは、徹底的であり、古い姿態を葬るときには、多くの段階を終わりまでやり通す。世界史的な姿態の最後の段階は、その喜劇である」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』、城塚登訳、岩波文庫、1974年)
二つの茶番がある。一つには、先ほどからくだくだしく書いている『此処か彼方処か、はたまた何処か?』研究生発表会を再演した、発見の会における本公演、つまり現在まで踏襲された演劇の形式としての茶番。もう一つの茶番は、革命/反革命の歴史、思想を茶番のように扱う、大岡演出による『此処か彼方処か、はたまた何処か?』というハプニング劇、もしくは茶番劇。今度は、茶番劇の方を考えてみよう。
茶番劇は何を歴史化しようとしたのか。革命だろうか? どの革命を茶番に仕立て挙げようとしたのだろうか。劇の終わり間際になり、登場人物たちにとっての反革命とは、これまでの、または継続されている政治革命、宗教革命、芸術革命に対しての反革命であることが仄めかされ、「ほんじゃ、始めるか……」「悲劇中の悲劇を!」と宣言することで、「夢見る反帝反スタ」と嘯いていた彼/彼女たちが新たな革命/反革命を起こしに行くように見える。二度目の茶番は、一度目の悲劇へと読み替えられていく。悲劇を茶番にした歴史から逃れるように。この思想的に最もいい加減な場面こそ、今、私たちに突きつけられているのではないか。意識的、無意識的に羽織る私たちの扮装が宙吊りにされるように。亡霊どもの扮装と台詞を借りているなどとは思えなくなったとき、茶番劇を茶番として演じ通すことは出来ない。
悲劇の扮装を宙吊りにした者たち、根拠のない発語自体が革命行為であると示した者たちが、トラックに乗り込み劇場の外に去り、シャッターが閉められた終幕には、俳優は悲劇を演じることも放棄し、ただ、一つの職能を務めた者として、「お疲れ様!」と言い合いながら、肩を叩き合い、劇場の入り口へ向かう景色を想像する。そして観客は、上演の“当然”さに守られながら、安堵し、拍手を送る。このとき、“当然”であることに猛烈な違和感を覚えるのだ。このような上演を“当然”としてきてしまったことに。発語の内実、問われた内実を忘れたかのように、陶然と拍手を送る私たちにこそ、挑発されたことを忘れようとすること。何も変えられなかった、敗北した、裏切ったと弾劾した者たちが、弾劾した悲劇を演じ、そして、上演が終了し、演技をやめる。悲劇を弾劾した者が悲劇を演じることは、意識的に行われているのであろうか、分からずに行っているのであろうか。茶番が繰り返されたとき、分からなかったとは言えない。分かっていながら、茶番であることをやめたのだ。上演という“当然”に根拠を見出したのだ。そのような、悲劇の感動的な姿が最後に提示されてしまったとき、私たちの“当然”が担保されたとき、私たちは、今日の下劣を昨日の下劣さによって正当だとする。この正当であるとすること、“当然”が露呈すること自体が挑発なのだ。
『此処か彼方処か、はたまた何処か?』では、埴谷雄高の発言や小説が引用される。ここに“当然”への弾劾が隠れている。埴谷雄高『死霊』における断罪の章では、キリストも、釈迦もそれぞれ食したものから「お前は俺を食った」と断罪されるが、胎児のまま自殺した者の登場によって、“当然”と開き直ってきた「食う」ことも弾劾可能であることが示される。では、そのような弾劾者は「いる」のか。「ここに私がいる」ということが、同時に「私がここにいるのは、私以外を排除しているからである」であると考えるとき、「排除する」ことが「食う」ことと同義にされるとき、自身もまた同罪だとすることによって、弾劾者はいなくなる。埴谷は、「そういう弾劾するやつは根拠がなかったということなのですよ。」と語る。このような根拠なき弾劾者が、上演における登場人物たちであろう。しかし、上演はそこにある。あるが故に、根拠のない弾劾者として現れることは出来ない。確かに登場人物たちは、上演において弾劾者の扮装を、台詞を借り、“当然”に対して反旗を翻すのであるが、上演はそこにある。そこで行われているという“当然”さに、上演という与えられた環境の中でいまだあらざりしものを提示しようとする、まさにそのようなときにこそ、この“当然”を問うたにも関わらず、いや、問うたからこそ、“当然”への疑いが、意識的に現れるのである。
2014年1月25日に、桐朋学園芸術短期大学専攻科演劇専攻終了公演『真田風雲録』(作/演出:福田善之)を見た際にもこの問いを喚起させられた。『此処か彼方処か、はたまた何処か?』と同様に、時代と共にある戯曲だと思い込んでいたが、52年後に再演された上演では、“当然”を揺さぶる台詞群が、何ら空々しさを与えずに、放たれていた。
茶番が繰り返されるとき、悲劇の扮装が脱ぎ捨てられ、悲劇の中で何が起こっていたのかを直視する契機が訪れる。あなたが、このような上演の仕組みを一つの消費形態として回収することに違和を感じるのであれば、これらの上演は批判的継承として今後も参照されていくだろう。
【筆者プロフィール】
佐々木治己 SASAKI Katsumi
劇作家。TAGTAS所属。1977年、北海道生まれ。
2001年、60億人の為の演劇≪自動焦点≫にて演劇活動を開始すると共に、土方巽記念アスベスト館での舞踏作品『大鴉』等の演出を行う。2006年劇団解散後は、劇団解体社、OM-2等へのテキスト提供、ドラマトゥルグとして参加し、SPAC『此処か彼方処か、はたまた何処か?』ではドラマトゥルグを担当。