劇評講座

2014年6月24日

■依頼劇評■極北の劇場はクラインの壺となって テアトロ・デ・ロス・センティードス<五感の劇場>による<よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン>を体感する――阿部未知世さん

■卒業生 依頼劇評■

極北の劇場はクラインの壺となって

テアトロ・デ・ロス・センティードス<五感の劇場>による
<よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン>を体感する

阿部 未知世

0. クラインの壺をご存じだろうか
 クラインの壺というものがある。
 この壺をガラスで作る時。まずあるのが、片方がぷくりと膨れた、もう片方が鶴の首のように細く長く伸びた、一本のガラスの筒。その首の部分が、ますます細く長く伸びて弧を描き、あろうことかその先端が、ぷくりと膨れた胴体に突入する。首は突入してもまだ伸びながら先端部が広がって、あげくの果てに、開口したままのもう一方の端へと、内側からつながる。これで奇妙にねじれた、不思議な形のガラスの容器が出来た。内側を辿るといつの間にか外側に出てしまい、外側を辿るといつの間にか内側に…。これがクラインの壺なのだ。
 これは一体、何ものなのか。純粋に数学的な、非ユークリッド空間で生起する事象で、境界も表裏の区別も持たない曲面の一種なのだそうな。クラインの壺とは、その曲面をユークリッド空間の3次元に、無理やり埋め込んだ形なのだ(Wikipedia)というが…
 想像を絶するその成り立ちは置くとして、ただこの奇妙にねじれた物体は、見る者を何とも釈然としない、しかしどこかで解放されるような、不思議な感覚へと導く。あの細く長い紙テープを、半分だけひねって輪を作った時、表面をたどって行ったつもりが、いつの間にか裏面を進んでいっている、あのメビウスの帯とも通じる…。
 前置きはこのくらいにして。

1. <扉>を超えると
 今回の会場は、ホテルのような処。受け付けを済ませる際には、荷物をそして帽子をも預けるよう促されて…。ロビーには、今回の参加者とおぼしき人たちがあちこちに。やがて外国人スタッフが、ロビーの奥まった場所に案内して。そこには30人ほどいて、プレリュードとしてのエピソードを聞く。
 かすかな非日常感を抱きつつ、参加者は次のステップへ。そこは本来、大きなホールなのだろう。入るとその場はかなり暗く、天井が低い、左右が見えない通路。心なしか空気がひんやりし、微かな香りも漂っている。
 幾つか角を曲がった後、仄かに灯りがともる、小さな広場に出る。そこにはスペインの民族衣装の男性がいて、扉について語り始める。誕生が、死が、扉を超える行為ではないかという。気が付くとその場には、二つの扉がある。ひとつは<よく生きるための>扉。もうひとつは<よく死ぬための>扉。どちらかを選ぶように求められる。
 希望する扉の前に立つと、民族衣装の女性たちによって、5人ほどのグループに。その女性の対応は、言葉少なくもの静かで、各人に黒い布を手渡し、自らに目隠しするよう促す。
 その女性のリードでいよいよ…。前を歩む人の肩に手を置いてゆっくり進み、扉を超えたことを実感する。空気が確かに変わって、植物の香りを含む爽やかなそよ風が吹いて、微かに音楽が聴こえる。耳をそばだてると、か細く途切れがちに聞こえるハミングは、あの第二次世界大戦前の名曲、<蘇州夜曲>。ギターが、ごく遠慮がちにからむ。
 見ることができず、音と香りと皮膚感覚のみが許された情況。もちろん、靴はとうに脱いでおり、絨毯の感触が足裏に感じられる。促されて腰を下ろす。それは椅子。しきりに鳥がさえずり、水が流れ、台所仕事でもしているような、日常的な様々な音に包まれてゆったりと流れる時間に身を任せる。誰か帰ってきたようだ。台所で仕事をしていた女性と、何故か追いかけっこを始めて、やがて。そう、ふたりは愛の交歓を始め、そして満たされて…。自らが、ふと目覚めた、地中の死体なのではないかとの思いがよぎったりして…。
 水が細く流れる、あるいは注がれる、心地よい音が聞こえる。その音がだんだん近づいて来る。誰かが手を取り、温かなお湯にその手をつける。心地よさが広がる。乾いたタオルで手を拭いてくれた後、静かに目隠しがほどかれる。

2. 生と死の坩堝の中で
 ほとんど闇に近い空間。その中でグループのメンバーが、向き合って(あるいはコの字状に)腰かけていることが判る。やがて向き合った人の間に、白い布をかけたテーブルのようなものが、静かに運び込まれる。
 何とも気がかりなそのかたち。もしかして白布の下には、頭があって、身体があって、手足があって…。大きさといいボリュームといい、どうしてもそう思えてならない。運んで来た人も、ことさらに鄭重に扱っている様子であるし…。もしかしてこれは死者なのか。意を決したように、静かに白布が引き放たれると…。そこにあるのは、果物やらパンやら、様々な食べ物。軽い安堵と驚きの中にいる人々に、女性たちはワイン(に見立てたジュース)を手渡し、食べ物を勧める。死者を食する…?ふと、キリストの血と肉を頂くカソリックのミサのイメージが重なって…。
 ひとしきり食卓を囲んでいると、やがて音楽が始まる。アコーディオンとギター、そして太鼓。それらの楽器が、もの悲しくメランコリックなメロディを、繰り返し奏でる。
 暗い空間を見通すと、全体はかなり広く、周辺には同じような食卓がいくつかある。天井からは、不定形な白い布が頭上近くまで、無数に吊るされている。
 わずかに明るい、広く何もない中心の部分に、髑髏の仮面の異形の者が登場する。それに絡むように、スペインの民族衣装の女性が現れて、互いに挑発し、誘い合って、やがて抱き合ってダンスが始まる。これはまさに、乙女と死神との死の舞踏ではないか。スペインの画家ゴヤの晩年の、暗く悪魔的な様々な絵のイメージが重なる。
 周辺で見ているわれわれは、民族衣装の女性たちにいざなわれて、次々に踊り始める。最初はその女性と、やがてはわれわれどうしで 輪になったりして、全員がひとしきり踊り続ける。祭のダンスか、はたまた魔女のオージーか…?
 やがて音楽が静まり、立ち尽くす私たちは、小さな蝋燭の周りに、10人ほどが輪になって床に座る。スペインの民族衣装をまとった日本人男性がこんなことを語りかける。自分の人生が一冊の本だとして、その最後のページには、どんなことが書かれているのか。
 その問いかけとともに各人には、ちょうど本くらいの大きさの薄い板、次に手漉きのような感触の紙、さらには鉛筆が手渡され、その最後の1ページを書くよう促される。かすかな唐突感を伴いがら、ひとしきり思いを巡らせ、何事かを書き付ける。
 それらのメッセージは、先ほどの男性によって集められる。しかし、その場で読まれることはない。男性は真新しい白いシャツを持ち出し、丁寧にしわを伸ばして前のボタンをはずし、その中にメッセージを収め、またボタンをかける。白いシャツ自体が、大きなポケットまたは袋であるような扱い。男性は低い脚立に乗って、そのシャツを吊るす。頭上近くまで垂れ下がる白い不定形な布と見えたものは、シャツやらズボンやら、吊るされた無数の白い衣類だったのだ。暗がりの天井に、ふと青空を感じたりして…。
 その後男性は、以前に吊るされた別のシャツを下ろし、そこに収められていた別の人たちのメッセージを披露する。日本語の、外国語の、あるいは絵だけの、様々な最後の1ページが、そこに存在していて…。
 それらのメッセージを見終えた頃、ひとりひとりが民族衣装の女性にいざなわれて、その場を離れ、元の広場へと戻る。しかし今度は、扉を通ることなく…。どうやら、一連のことは、これで終わったらしい。

3. 根源への遡及
 死と生の、多彩なイメージの記憶と共に、何となく釈然としない思いが残った。
 その思いの中核には、これは本当に演劇なのかという率直な疑問がある。
 <五感の劇場>の芸術監督のエンリケ・バルガスは、演劇を学んだ後、文化人類学とりわけ演劇人類学を修め、神話や儀礼において身体的な感覚が占める役割について研究を重ねて来たという。<1>
 バルガス自身、この作品を作るにあたってまず、ラテンアメリカや南イタリアの古い儀式について研究することから始めたと記している。<2>
 演劇の起源の一端が、宗教的な儀礼に求められるという定説を踏まえれば、この作品は、演劇の根源へのラディカルな遡及の試みである可能性は大きい。
 では、儀礼とは何事なのか。伝統的な社会をモデルにすれば、儀礼とは共同体の成員が、超越的な聖なる領域と交流するための手続きである。その行為を通して共同体および個人には、存続と繁栄のためのエネルギーを、超越的な次元からもたらされる。この次元を超えたエネルギーの循環の、ひとつの要となる行為が儀礼なのだ。
 例えば、収穫祭。共同体の神話を根底に据えて、豊穣への感謝が捧げられる。参加する共同体の成員はこの時、非日常的な時間を過ごす。それはカーニバルといった狂騒であり、無礼講といった価値の転換であり、生のエネルギーはこれによって賦活される。
 例えば、通過儀礼。今日の成人式は形だけのものに過ぎない。伝統的な共同体において、ある年齢に達した子供は、一生の重大事としてこの儀礼に臨む。複雑な儀礼を無事に終えることによって、子供は初めて時間を超えて続く共同体の一人前の成員として認められ、権利と義務が保障される。それは、神話的世界からの承認でもある。子供の死であり、大人の誕生を意味するこの儀式は多く、生命の危険を伴うほどの過酷な様相を呈する。
 毎年繰り返される円環的な時間であれ、誕生から死へと向かう直線的な時間であれ、その流れの中で行われる儀礼は、時間を区切る存在である。圧倒的な規模で流れる日常的な時間の間に打ち込まれた楔のように、ほんの僅かな、しかし意味深いあわいの時。許されたその時だけ、価値が顛倒し、秩序が崩れて混沌が生じて、超越的な次元からのエネルギーが流入する。超越的な次元とは、外なる宇宙的なレヴェルと、内なる無意識的なレヴェル。ふたつは両極でありながら、実はひとつのものなのだが…。

4.内面化する劇場
バルガスは演劇という、感動とカタルシスを生み出す、そしてその他もろもろの力を内包した、極めて魅力的な何ものかを、根源に遡って(ラディカルに)追及する。彼は、演劇=儀礼という原初のかたちにまで立ち至り、そこで両手で水を掬うかのように、何も損なうことなく掬い取ろうとする。
 単に観客の外部にある、観るイヴェントとしてではなく、儀礼の当事者が体験する外的・内的体験の総体を、体験そのものとして参加する者に移し替える。これは過激(ラディカル)で困難な実験なのだ。
 それにしても、大変な力技(ちからわざ)である。
 移し変えるものは、内的な充実としての<よりよい生>と<よりよい死>とは何かという問い。そして<よりよい生の帰結としてのよりよい死>、あるいは<よりよい死のためのよりよい生>というメッセージ。これらは互いにあざなわれる縄のごとき様相を呈する。
 現代を生きる私たちには、生きた神話もそこに息づく生きたシンボルをも、意識の上には持ち合わせてはいない。そんな存在に、単に頭脳を介した知識としてではなく、深く心に刻まれる確かな実感としてメッセージを届けることは、至難の業であろう。
 それを叶える手段としてバルガスが択んだのは、強烈な詩的イメージ。深く多義的な、生きて今ここに息づいている、力強い生きたイメージの中に人々を解放する。それはある種の混沌の体験でもある。
 その空間に身を置く私たちは、そのエネルギーに満ちたイメージに共振し始める。五感を通して起こった共鳴によって、私たちの、内奥深くの何かが目覚める。恐らくそれは人間が、地域をそして時代を超えて、その深い基部として共通に持っている、集合的無意識と言われるレヴェルの何ものかなのだ。
 バルガスの演劇空間は、それを根源まで遡った、すなわち極北の劇場である。この極北の劇場は、その場に身を置く者を包み込む。と同時に異次元を介してその内面にも、生々しく息づく。いつの間にか外が内になり、内が外になって行く、まさにクラインの壺のように。

5. 俳優たちの勇気に…
 等しく死へ向かって進む私たちにとっての、意識的・無意識的なひとつの節目となって、より創造的な生を歩み始める可能性をはらむこの劇場。この濃密に息づくイメージ空間を作り出す俳優たちは、一定の物語性を表現しながらも、参加者がより良くその場を体感できるよう心を砕き、世話役に徹する。その意味で俳優たちは、優れて空間そのものとなる。
 舞台上で、観客の目にさらされてこその俳優たち。彼ら彼女らの存在理由には、そんなナルシズムが多少とも息づいているだろう。その俳優たちが、わが身を闇に隠し、空間へと溶け込むことでのみ存在している。この劇的空間がはらむ創造性にかけて、ナルシズムという存在理由を擲って、空間の濃密さへと化した俳優たちの勇気を、私は大いに賞賛したい。五感を研ぎ澄ます、厳しい訓練を重ねているらしい彼ら、彼女らのラディカルさを<3>。
 最後に、ひとつの報告でこの文章を終わろう。
 会場からの帰途、思いの浮遊に身を任せつつバスの座席にいた時。ふと、全身がひどく疲れていることを感じた。疲労感ではなく、深い脱力感というのが正しい。まるでサウナか温泉で、十二分に寛いだ時のような。しかし脱力は、より深くから起こっているらしく…。そう言えば公演中にもこんなことが。目隠ししたままの首筋から後頭部が、灼熱して拍動し始めたのだ。疲れているのだなと、気にもとめずにいたが…。
 あの劇場に身を置くことで私は、この演劇が身心にもたらしたカタルシスを、つぶさに体験したのだった。
 

<注>
1:武藤大祐「官能と内省――テアトロ・デ・ロス・センティードスの芸術」『ふじのくに⇔せかい演劇祭2014 劇場文化』p.35
2.:エンリケ・バルガス「エンリケ・バルガスによるノート」『ふじのくに⇔せかい演劇祭2014 劇場文化』p.30
3:SPAC公式ホームページ内のブログに、この公演に参加する日本人俳優のオーディションとなるワークショップの模様を伝える、SPAC俳優牧山祐大のレポートがある(2014年4月29日)。