劇評講座

2009年8月14日

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

カテゴリー: じゃじゃ馬ならし

冷蔵庫のなかのカタリーナ

奥原佳津夫

戯曲『じゃじゃ馬ならし』には二つの特異な点があって、その上演は他のシェイクスピア劇とは違った形で関心を集める。一つ目は、シェイクスピア劇中異色の劇形式をもっていること。唯一明確な劇中劇形式(しかも序幕のみ)をもち、また、グレーミオの役柄が「パンタローネ」と明記されているように、コメディア・デラルテの影響が最も濃厚な作品でもある。二つ目は、ジェンダー観の問題と、それに伴う、現代の観点では許容しにくいベトルーキオの「馴らし」の暴力性。そして、それらの帰結として、終幕のカタリーナの独白をどう処理するか、という問題である。これらの課題に、上演がどう応えてきたかが、『じゃじゃ馬ならし』の上演史だとも云える。
さて、今回の上演、演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)は意識的にこれらの課題を避け(無効にし)、新たな切り口を探そうとしていたように思える。ただ、結論から云えば、幾つかの興味深い観点は導入されているものの、挑発的な意匠のわりには捻りのない、至って普通の上演に終わってしまっていたようだ。

舞台面は、中央奥にグランドピアノを置いたガラス張りの部屋(バプティスタ家の姉妹の居室)、下手奥に隣家とおぼしき同様ガラス張りの小部屋、そして左右にコンクリートの柱が数本の無機質な空間。
劇中劇の枠組み部分は完全にカットされ、本編のみが現代劇のスタイルで上演される。
まず驚かされるのは、シニョール・バプティスタが姉妹の父ではなく母になっていたこと。ただし、スーツ姿の実業家女性であり、その役割は原戯曲の父親と何らかわらない。現代において、家父長的権力が必ずしも性差には基づかず、恐らくは経済力がそれにかわることが示される。
求婚者の男たちは、体育会系の部活を思わせるチームを形成していてその粗暴な挙措は、過剰に演出されたカタリーナの暴力と相俟って、全編を喧噪のトーンで包み、その中でペトルーキオの暴力性は特に際立たない。
かくして前述の二つの課題は無効化される。

演出者は、無機質な空間で経済関係に縛られながらも、それでも尚、人間が生身の肉体であることを示そうとするように、挑発的、時に露悪的な表現をちりばめるが、例えばビアンカをめぐるプロットでの性描写も、「楽器」と「奏楽」が「性器」と「性的悦楽」の隠喩を持つことは、シェイクスピア当時から周知のことで、全裸を晒して説明するまでもなく、この場合、直接的な表現はむしろ演劇表現としては退行なのではあるまいか?また、カタリーナが失禁して、ペトルーキオがそれを啜ってみせるのも、ショッキングなわりに、作品の構造には特に意味をなさない。

なかで、発展させられる可能性をもつ着想が二つ。
一つは、婚礼の場で、珍妙なかぶり物をした参列者一同に、礼服に白ネクタイの至って常識的な衣裳のペトルーキオが、その身なりを非難される場面。何が正常で、何が異常なのか、という揺さぶりをかけるところから、この戯曲の新たな切り口が見えてきそうなのだが、この場限りの思いつきに終わってしまっているのが惜しまれる。
二つ目は、求婚を拒んだカタリーナが、冷蔵庫に閉じ籠もる印象的なシーン。つづく「馴らし」の場面では、この空の冷蔵庫から冷たい光が舞台を照らす。現代消費社会の経済関係を想起させる家電品であり、また現代でも主に女性の場、家庭的な場であるキッチンを代表する冷蔵庫(しかも空の)とカタリーナの組み合わせは、この上演における彼女の屈折したメンタリティを表象する小道具として秀逸である。

さて、問題の終幕の独白の処理だが―他の登場人物たちは退場し、ペトルーキオは客席中央に座って、舞台に一人残されたカタリーナは、彼だけではなく、客席全員の審査を受けるように、女性の従順を説く長台詞を語りきって、手を差し出す。これに応じて、ペトルーキオは、件の冷蔵庫を小部屋に運びこんで、二人抱き合うところで溶暗―。
劇中随所に、過激な問いかけの姿勢を見せながら、この収まるところに収まった予定調和とも云える結末は、口当たりがいいだけに疑問を感じる。むしろ、カタリーナが客席に差し伸べた手は、回答を与えられないまま終わるべきだったのではなかろうか?
この上演が、数々の奇抜で挑発的な表現を含みながら、本質的には何の違和感も残さなかった所以である。
(於.静岡芸術劇場 2009.6.27所見)