◆不在をめぐる物語―鈴木忠志版「サド侯爵夫人」、そして「ゴドー」 柳生正名
不在をめぐる物語―三島由紀夫の「サド侯爵夫人」と題されたテクストを、こう読み取って、異論を唱える声は出まい。登場するのは、侯爵夫人ルネ以下、六人の女のみ。全体を統べる中心、であるはずの侯爵本人は一切、姿を見せない。放埓な性癖の咎を受け、獄中にある夫に貞淑を貫き通すルネは第三幕、釈放された侯爵との面会を何と拒む。常に女たちの話題の中心にいる侯爵だが、舞台への到来は最後まで却下され続け、物語は終わる。
第二幕のみの上演となった今回の鈴木忠志版も、こうしたテクストへの理解が前提となっていることは間違いない。「侯爵の不在」が劇的な求心力であることは、サド邸サロンとして設えられた舞台の中心線を、徹底的に空虚化することで露わにされるだろう。
その中心線上には果物や野菜が盛られた鉢が置かれるのみ。舞台は左右に分断される。下手に「貞淑の権化」たるルネ、上手は「肉欲」のサン・フォン伯爵夫人、「無邪気と無節操」を代表するルネの妹アンヌらの座。
中心線すぐ下手に籐椅子が設えられ、その空席が、囚われの身の侯爵の「不在」を視覚化する。椅子には、サン・フォン夫人が自らの、そしてモントルイユ夫人が娘ルネと侯爵の間の、涜聖的な行状を暴く場面にのみ、座を占める。二人の口から発せられる、「サド侯爵は私です」と言わんばかりの、熱っぽく、しかし、どこか虚ろな言葉。それは、フランス古典劇の詩形を意識した劇作者の意図を逆なでし、読経のように平坦、かつ鶴屋南北ばりの五七調に、無理やり押し込められる。
特徴的な演者たちの身体性。重心の揺れを抑え、発声と所作を一体化しつつ、極度に集中を高めていく点など、まさに能楽的だ。と、夢幻能が主役の現世における不在をめぐる物語であることが、自然に思い起こされる。わけても、複式夢幻能では、しばしばワキが演じる旅人の夢にシテ演じる霊が現れ、その夢を観客が観る構造をとる。
鈴木演出は、「AとBと一人の女」などと同様、テクストにない男(演劇研究者)役を登場させ、ワキの役割を担わせた。ト書きや家政婦の台詞を断片的に語る、かと思うと、アメリカンポップスや美空ひばりの音楽を舞台に響かせ、いかにも戦後の昭和的心象に満ちた自らの内面を曝して見せる。
三島描くところのルネが、自らの貞淑の論理的帰結として、待ち続けることで愛の純粋性を選び取る心理さえ、男の抱く演歌調「待つ女」の情緒的イメージに、容易に絡め取られる。かくして、彼は自らの夢と現実を行き戻りしつつ、自らが不在である夢を夢見る。
これはほとんど、獄中のサド侯爵の心境そのものではないか。今回は、男が、ワキでありながら、不在のシテの存在をも最終的に担うことは演出上、舞台奥の中心線に近い座にほぼ不動で居続けることで、明確に示される。そして、観劇という行為自体、自らが不在の物語を窃視するという倒錯的な快楽に浸ることだ、と暴き、観客を挑発するのだ。
今回、創作過程における三島の関心が、夫を最後に見捨てるルネの心理解明という当初の目論見から、サド侯爵という劇的中心の不在が貫かれる劇空間の「中空」的な構造そのものへと変化していったのではないか、と気付かされた。演出がその点を意識的に焙り出そうとしたこともあろう。それも、おそらくは、全篇を通じ題名役(タイトルロール)が舞台上に現れない不条理劇、サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」を、大胆に参照する形で。
例えば、演劇研究者の男が舞台中心線上のテーブルや鉢から野菜を取り、むさぼる、この演出特有の所作。ゴドーという常に不在の人物を待ち続ける(その点でルネと共通する)二人の男に、ベケットが人参や大根をかじらせる場面を髣髴とさせる。やがて、この二人の前に現れる暴君めいた男は、鳥の骨付き肉をしゃぶり、鞭を(サド侯爵張りに)振るいさえする。
同じサディズムも、肉食中心の西欧では鞭がシンボルとなる一方、草食的な日本では緊縛が好まれる、という。今回の舞台も、役者の「カタ」にはまった身体性や台詞回しにどこか、草食が漂う一方、語られるテクスト内容(特にサド侯爵の行状)は「鞭と論理」の貫く肉食性に彩られる。
こうした肉食/草食、ポップス/演歌、西欧/日本など、対立する二項のあわい。その、いずれの項にも属しえない隙間(つまりは中空)に立ちすくむこと。実はこれが三島由紀夫の存在論的な本質であると同時に、近代日本の在り様でもあった、のではないか。とすれば、今回の舞台は、戦後に至る近代日本の歩み行きに殉じた三島自身の内なる「中空」さえ、批評的に描き出して見せたことになる。
ベケットがノーベル文学賞を得た一九六九年、事前に最有力候補と噂されたのが三島だった。結果的に受賞を逃したことが、翌年の鮮烈な自決という結末を導き出す、ひとつの伏線となった―そう思われてならない。
一方、鈴木世代の演劇人にとって、「ゴドー」は一種母胎的な原点をなした。である以上、三島戯曲の最終到達点にベケットを忍び込ませた今回の舞台こそ、同じ昭和を生きた二人の芸術家が互いの臓腑を曝し合う、張り詰めた場となったことも当然の結果だった。そしてそこでは、鈴木の密やかな告白も漏れ聞こえたように思う。曰く「三島は私だ」と。(了)