劇評講座

2017年10月13日

秋→春のシーズン2016■最優秀■【高き彼物】小長谷建夫さん

カテゴリー: 2016

ただ泣かされただけじゃなかった

 こんなことで泣くようなヤワじゃないぞと堪えていたのだが、後ろの席の男性が涙のためか鼻づまりになって口で息をし始め、時々「うーっ」という妙な泣き笑いの声を上げるに至り、折角閉めていた涙腺が見事に開いてしまった。気が付くと周辺の観客もみんな鼻を啜りあげたり、目元を拭いたりしている。
 古館寛治演出の「高き彼物」は上質の人情劇、高い志を持った人情劇であった。
 三時間の芝居と聞いて、居眠りをしないようにと少々身構えて席についたのだったが、開幕と同時に真夏の驟雨を浴び、昭和50年代の川根の田舎町に引きずり込まれ、以後そこの雑貨屋の居間で繰り広げられる人間ドラマに浸りきりとなった。警戒していた眠気は、より強敵の涙と鼻水に替わったわけだ。
 春に二人乗りのバイク事故で友人を亡くした高校生・藤井秀一が夏の受験合宿へ行く途中で、田舎町の事故現場に立ち寄り動けなくなる。それは日射病のせいでもあり、自分の気持ちの整理がつかないでいたせいでもある。舞台はその秀一を保護した小さな雑貨の店を営む元教師・猪原正義の家である。
 実は自分が無免許運転で事故を起こしたのに、事故はバイクの持ち主である友人が起こしたものとして処理され、それを言い出せなかった秀一。その重い罪の意識や父親などとの葛藤をいかに乗り越えていくか、また周囲の人間がいかに彼を導いてやるかが、この芝居のテーマかと思うとそう単純ではない。
 ここに登場する人物は誰もがそれぞれ、罪の意識や不安や葛藤や希望など抱えている。
 かつて同性愛問題を起こしたとされ退職した正義。教育への情熱は衰えないが、生徒の心を傷つけてしまった罪の意識も拭うことができずにいる。その娘・智子は父親の胸の中がわからないまま、問題の相手、かつての生徒だった男・片山仁志と結婚の約束をしながら不安にさいなまされる。また正義を慕い続ける女教師・野村市恵もまた同様の不安と葛藤の中にいる。智子に片思いする警察官・徳永光太郎だって、思いを打ち明ける前に失恋するという悲劇の人だ。
 輻輳する登場人物たちの思いを表現するための舞台は、宮沢章夫によるデザインである。正義の家の居間とそこに繋がる廊下、あとははるか外まで見通せる家屋の骨組みだけ。居間におかれた仏壇やちゃぶ台、黒い電話などが日常と舞台との微妙なバランスを取る。
 それにしても居間の向こうが見通せるというのはすごいことだ。向こうはおそらく店の土間があって、その先は表通りなのだろう。秀一が怒りのまま飛び出していく場面、智子があわてて自転車で駅に向かう場面、市恵がおずおずと現れる場面等々、すべてが極めて立体的、つまりは現実的となる。さらにその向こうには田舎の街並みや茶畑が広がっているに違いないのだ。
 尤もそれ以上に、SPACの名優たちによる絶妙の配役と演技が、この芝居の最大の成功要因であったことは間違いなかろう。
 あまり役を作りすぎるなという古館の演出なのだろう、登場人物たちは少しの誇張もない普段通りの生活を舞台上で繰り広げる。勿論抑制された演技の中にも、現実世界がそうであるように、怒りも涙も笑いもある。
 秀一の怒りと懊悩、正義の激昂、智子の愁嘆、どれも見事だった。特に市恵が正義を庇いながら秀一に説教、いや啖呵を切る場面などは胸のつかえが下りたものだ。
 緊張感あるいくつかの主題や人間関係の間を埋めるのが祖父・猪原平八や光太郎の存在だ。平八のとぼけた味、光太郎の不器用な片思いぶりは秀逸だ。光太郎が失恋のショックで呆然と去る時の背中。自転車の智子の必死の顔つき等、心に残る演技は数えきれない。
 さて、交響楽の主旋律のように登場するのが吉野秀雄の短歌の中の「高き彼物」という言葉だ。まさしく芝居の本テーマである。
 登場人物は誰でも様々な悩みを抱え傷つきながら生きている。誰もがそれらの悩みや問題を完全に乗り越えることなどはできない。ようは真正面から立ち向かえるかどうかだ。
 この芝居の骨格をあえて言えば、様々な出来事によって顕在化させられた登場人物たちの抱える問題や苦悩に逃げることなく、少しでも向かい合う勇気を持つよう、あるいは持たせようと努力するそれぞれの人間のあり方であろう。
 ハッピーエンド的な終幕だったことは、その努力の成果として誰もが少し勇気を得ることができたということだ。当然ながら問題が完全に解決したというのではない。秀一は無免許運転の事実を警察で自白するのだろうか。それよりも本当に心の整理ができるのだろうか。正義の体調の行方だって少々心配だ。
 だからこそ・・・苦悩の絶えぬ人生だからこそ、誰にも自分の高みにある何物かが必要となる。人によって形が変わり、志であったり希望であったり憧れであったりしよう。笑いと涙を散りばめたこの芝居の格調の高さは、まさにこの「高き彼物」の存在によるものであることは間違いない。