この演劇のクライマックスは、猪原正義の告白だ。舞台上に動くものはいない。でも、激しい緊張感にあふれている。舞台上の緊張感は客席に広がることにより強度が増し、劇場が一体となって猪原正義の次の言葉を待っている。猪原正義を演じる渡辺敬彦は、会場全体の緊張感をしっかりと受け止めながら告白を続けている。自分の言葉が観客の心に響き、広がっていくのを感じている。しかし、決して観客に語りかけているのではない。ただ、感じ、受け止めているのだ。観客もまた、舞台上で起こっていることを感じている。この瞬間からも、演出家・古舘寛治が役者と観客の想像力を信じ、戯曲と誠実に向き合っていることがわかる。彼は演劇の力を信じているのだ。僕はそのことに強く共感する。だから僕は、なぜこの舞台が、ここまで感動的に受け止められているのかを考えてみたいと思う。
僕には2人の子供がいて、子供と向き合う時、大切にしていることが2つある。1つは、子供に謝ること。もう1つは、言葉だけでは伝わらないことを自覚して、態度で示すこと。子供に謝ることを大切にするのは『人は誰もが間違える』ことを伝えたいからだ。子供は正しさに敏感だ。正しくなさに不寛容で、自分の正しさに執着して、他者を認めなくなることが多い。でも、人は間違える。大人だろうが、子供だろうが、間違えることは誰にでもある。僕も感情的になって、間違いを押し付けてしまうことがある。だから間違いがあったら、それを認めて、子供にしっかり謝ることにしている。いまの社会を見ていると、子供社会のような、間違いに対する不寛容が横行しているように見える。間違った人を徹底的に攻撃する。正しくなければ許せない。でも、間違いのない人間なんていない。すると、自分の間違いをなかったようにする。過去の間違いがなかったことになってしまうのはおかしい。でもそれがまかり通っている。
『高き彼物』は2つの過ちの間に揺れる少年の葛藤と成長を描いている。最初の過ちは、少年と友人・シノケンが関わる事故である。当初、亡くなったシノケンが運転するバイクで事故が起こり、同乗していた少年が生き残った話だったはずが、バイクを運転していたのは少年で、シノケンを死亡させてしまった事故であった、というショッキングな告白が少年の口から語られる。少年の過ちに対し少年の父親は、過ちを忘れ、先に進むべきだ、と主張したのだと言う。このシーンを見ていて、僕は頭を抱えてしまった。過去の間違いをなかったことになってしまうのはおかしいと思う。でも、もしも自分の息子が同じような状況になった時、僕は何と言うのだろう。親の立場から見ると、少年の父親の言葉も否定することができない。頭を抱えていると、野村市恵は、本当のことを話したほうが良いのではないか、と言う。この意見はとても正しい。正しいが、それで良いのだろうか。そこに、猪原正義が「わからない」と言う。わからないから、とにかく一度立ち止まって考えてみてはどうだろうか。つまり時間をかけて『正しくない自分とじっくり向き合ってみる』ことを勧める。僕はその答えに衝撃を受けつつ、その的確さに感心した。わからないことをわからない、と表現するのは勇気のいることだが、大切だ。少年は猪原家に滞在する事になり、そこで迷いを断ち切り、正しくない自分を抱えて生きていくために動き出す決意をする。なぜ少年は迷いを断ち切ることができたのか?それは猪原正義が自分の過ちを認め、その過ちと向き合い、乗り越えようとする場面にたまたま立ち会うからだ。そしてそれが冒頭に説明をしたこの物語のクライマックスだ。
この物語の2つ目の過ちは、猪原正義が教師を辞めるきっかけとなった、男子生徒との恋愛事件だ。猪原正義は懺悔をするように、その事件の顛末を自分の娘に、好きな女性に、そして少年に話す。それは猪原正義が何十年間『正しくない自分と向き合ってきた』ことの証でもある。自分の恥をさらけ出し、正しくなさと向き合う猪原正義の後ろ姿はどんな言葉よりも説得力がある。言葉だけじゃダメだ。言葉には力がある。でも言葉だけでは何も変わらないし、伝わらない。子供に何かを伝える時、言葉で何を言っても、僕がそれに反することをやったら全く意味がない。まずは自分が率先して変わらなければいけない。そして態度で示すのだ。猪原正義が本気で自らの過ちに立ち向かい、乗り越えようとしているのが伝わったからこそ少年の心に届き、少年は迷いを断ち切るに至ったのだ。
そしてそれは、観客である僕たちの心にも届き、動かす。なぜなら、猪原正義を演じる渡辺敬彦が猪原正義として本当にこの過ちに向き合い、戦っているからだ。これは役になりきる、ということとは少し違う。冒頭に書いたように渡辺は観客の存在を感じていると思う。でも、あくまでも渡辺が向き合っているのは自分の中にある猪原正義の内面である。渡辺だけではない、とみやまあゆみ、石倉来輝、本多麻紀もまた、自分のもう一つの人生として、それぞれの登場人物としての人生を生きている。だからこそあれだけの説得力があり、長時間の舞台に引き込まれてしまうのだ。警察官と親父の、味としか言えないような人間らしい可笑しさもまた然り。武石守正と吉植荘一郎がしっかりとそこに生きている証だ。もはや神のような存在として登場する片山が説得力を持つのも、それまでの積み重ねと若菜大輔がそこに生きているからである。そしてこれだけの世界観が成立したのは全て、古舘寛治が役者やスタッフ一人一人と丁寧に信頼関係を構築した上で、繊細な心の動きがスムーズに流れていくよう、緻密な演出を積み重ねていったからである。
演劇の出発点は戯曲であり、言葉だ。でも、その言葉をただ説明するだけでは、観客の気持ちを動かすことが出来ない。この『高き彼物』が感動的なのは、全ての役者が戯曲に書かれている登場人物の人生を、もしかしたらありえたかもしれないもう一人の登場人物という自分の人生に置き換え、それぞれの問題を自分の問題として、舞台の上で乗り越えようとしているからに他ならない。