暗がりの中、朗読の声を掻き消けさんばかりの轟音が響く。悪魔の咆哮にも似たその轟きは、サーカス小屋を取り壊そうとする建設機械の音だ。朗読の声も負けじと力強さを増しながら続く。「エリを真中にして守るようにぎゅっと寄り添って立つ。機械の騒音が耳を聾するまでに高まる」。
インドネシア出身のユディ・タジュディン演出の『サーカス物語』(原作ミヒャエル・エンデ)は、物語の最後の場面から始まる。観客は緊張と不安に包まれ、物語世界へと引きずり込まれる。引波に浚われる足元の砂の様に、現実と言う立ち位置が不確かな幻の如く消えてゆく。
化学工場建設のために立ち退きを迫られているサーカス団員達。工場の宣伝役として採用が決まるが、知的障害の少女エリを施設に入れろと言う条件付きだ。俄かには結論は出ない。エリとピエロのジョジョだけが残された舞台上では、エリはジョジョに「お話」をせがむ。エリが王女、ジョジョが王子なる物語が語られるが、次第に劇中の現実と劇中劇とが交錯を始める。少女エリは本当に(?)王女エリに戻り、ジョジョもジョアン王子としての記憶を取り戻す。彼らは、サーカス団員と共に「明日の国」へと向かい、大蜘蛛アングラマインを倒し「明日の国」を取り返す。大団円だ。さらに劇中の現実では、化学工場との契約書を破り捨てエリと共にいることを選ぶ。こちらもハッピーエンド、と思う間もなく、待っていたのは団員たちの頭上に降り注ぐ建設機械の巨大な影と轟音だ。そして、ここで終幕となる。
現実と劇中現実と劇中劇の三層の構造からなり、さらにこれらが逆転または交錯することでより複雑な多重性を持つ構成になっている。「空想と現実」が表裏をなし、「空想であるジョジョのお話」が「現実」に影響を及ぼす。さらには、「現実」と「空想」は、別のものであると同時に同じものでもある。この物語はそう説く。
とりわけ、少女エリと王女エリが入れ替わる場面は秀逸だ。ジョジョが拾った鏡の欠片が、実は王女エリの影を映したまま砕け散ってしまった鏡の精カロファインの欠片で、鏡に映された王女エリの影と実体の少女エリとが対称的な動きでゆっくりと互いに近づく。少女エリに王女エリが近づくに従い、少女エリが記憶と正気を取り戻していき、ひとつとなり、王女エリが実体となる。そして、少女エリは影のように静かに消えてゆく。ふたりのエリの一挙一動の透明感が美しく目が離せない。また、エピローグでは少女エリ役の布施安寿香が朗読役となる。これもプロローグと表裏をなすものと言えよう。
表や裏、実体と影、という言葉を用いてはいるが、この物語を見ているとどちらが表でどちらが裏なのか単純には割り切れなくなる。王女エリと言う影を失った実体のエリは障害を持つ弱者として描かれている。一方の王女エリは、鏡に映る影としてしか存在しえない。二つが一体となる事で実体としての王女エリに戻る訳だが、今度は少女エリが裏(影あるいは内包されるもの)となる。実体だと思っていた少女エリが実は影であり、実体を持たないお話の登場人物であったはずの王女エリが本体であったという事になる。
夢や幻や影と言えば「儚いもの」「不確かなもの」の代表格であり、現実は「確かな物」の代名詞である。しかし、儚いと思われている夢や影こそが真実不変であり、実体こそが却って移ろい易いものにも思えてくる。肉体は滅びるが魂は不変であると言う輪廻転生思想の様な考え方も伺えて面白い。
敵役のアングラマインが「自らの内面の醜さによって滅ぶ」事も、これを暗示している様でとても興味深い。一人二役ならぬ二人一役でアングラマインが演じられていることも、アングラマインの妖しさを際立たせているのみならず、物語の多重性の象徴と言えるかもしれない。
このアングラマインとの対決のシーンでの影絵表現の様式美や、音楽・照明に漂うオリエンタリズムが非現実の空間を作り出す助けになっている事、現実世界と物語の架け橋や澪標となる独自のプレ・オープニングなど、他にも言及したい事は山ほどある。それほどに面白い舞台であった。
さて。
一般的な子供向けの物語では、ファンタジー世界で悪役を退治すれば現実世界での異変も解決する。だが本作では、空想世界で大団円、劇中現実でも「仲間の絆」の大切さを謳うが、建設機械の破壊の斧は容赦なく彼らの頭上に振りかざされる。果たしてこれはバットエンディングなのだろうか?アングラマインを倒した「カロファインの鏡の欠片」は現実にはない。では、対決の際に主人公らが見せた想像力や勇気や知恵や団結は?これらは「目に見えないもの」ではあるが、決して空想の産物ではない。誰もが持ちうる「力」なのではないだろうか。物語に続きがあれば、必ずや彼らは「希望の溢れる明日」に身を置いている。私はそう信じる。
しかし、文字通り現実は厳しい。
エリやジョジョの明日は信じられる。しかし「私達の明日」は信じられるのだろうか?問いかけるように舞台上に置かれた『サーカス物語』の本が、私達にとってカロファインの欠片にならんことを切に願う。