劇評講座

2017年10月13日

秋→春のシーズン2016■入選■【東海道四谷怪談】平井清隆さん

カテゴリー: 2016

 中野真希演出の『東海道四谷怪談』(以下『四谷怪談』と略す)は「怪談」と言ってよいのか。観劇しながらそんな思いが頭をよぎった。

 あらすじは周知の通りだ。お岩が夫・伊右衛門に惨殺され幽霊となり復讐を果たす、と言うもの。日本の代表的な怪談の一つだ。しかし、怖い場面よりも、圧倒的にコミカルに笑う場面の方が多いのだ。伊藤家の乳母・お槇が伊右衛門の元を訪れる下りで、捕らわれていた小仏小平を隠すところなど、まさしくコントそのものだ。伊右衛門とお槇、伊藤喜兵衛とその孫・お梅の四人で、如何にしてお岩を排除しお梅を後添えにするかと言う悪巧みをめぐらす場面もしかりだ。企みのあくどさとは対照的に笑いが満載なのだ。場面だけではない。悪人であるはずの伊右衛門とて、人非人と非難をしたり憤りを覚えたりと言うよりも、漫才にツッコミを入れたくなるような風情に描かれている。終盤の小塩田又之丞も絵に描いたような正統派の武士であるが、それが却って可笑しみになるように描かれている。

 ホラーが苦手と言う方には良いだろうが、怖いもの見たさの方にはどうだろうか。甘いもの食べたさに買ったスイーツが甘さ控えめだったらどう感じるだろうか。そんな心配をしながら舞台を観ていた。

 しかし、それは杞憂であった。

 さて、筆を進める前に、中野演出を考察する上で欠かせないものに触れておきたい。シアタースクールである。
 シアタースクールはSPACの人材育成事業の一つで、夏休み期間に小学6年生(または中学1年生から)~高校2年生までの子どもたちが演劇の基礎や上演のための稽古を通じ、「演劇の面白さ・奥深さ」を学ぶと言う事業である。この演出と指導を2007年のスタート時から中野が務めている。寄り道に思われるかもしれないが、縁あって、何年か中野が指導する様を拝見させていただいた身としては、素通りは出来ない。もとより、子どもに指導をしながらつける演出とプロの役者につけるそれが同一とは思わない。だが、シアタースクールで見られた手法が本作でも随所に表れていたように感じたのでやはり触れておきたいと思う。ご容赦を願いたい。

 目に見えてわかりやすいのは役者が複数の役をこなすところであろうか。これは子どもの体験では「楽しい」だけで終わるのかもしれない。だがプロの役者となれば、単に演技の幅を広げるというだけでなく、A役とB役の違いを自身の中で折り合いをつける難しさが出てこよう。より深く役を掘り下げ、より明確に表現をしなければ舞台の世界観が崩壊しかねない。

 また、中野のスタイルで特徴的なのは、演者の感性を尊重しながら、それでいて1本の芝居としてまとめ上げてしまうところだろう。シアタースクールでも「正解」を教えることはしない。中野の思う演技を強要する事もないし、配役も予め決まっているわけではない。腹積もりはあろうが、稽古を重ね演者の感性が中野の琴線に触れた時に役が決まる。

 『四谷怪談』でも同様だったことは想像に難くない。終演後のトークで永井健二が「(いわゆる”計算”が出来ず)手探りで感覚を研ぎ澄まさなければならない」と述べていたことからもわかる。『四谷怪談』でも、一挙一動、一場面一場面に役者の感性が充填されることで、全ての役がハマリ役の如く自然にかつ生き生きと演じられていたように感じられた。舞台を観ているだけではわかりにくいかもしれないが、中野演出の真骨頂はここにあろうかと思う。

 さて、冒頭の話題に戻ろう。

 本作が怪談よりも喜劇に近いのではなかろうかと述べたが、さらに舞台が進む中で、本作の伊右衛門に罪の意識はあったのだろうかと言う疑問が湧いてきた。お岩と復縁を望むも、公金横領の咎を理由にこれを認めぬお岩の父・四谷左門を殺め、素知らぬ顔で左門の仇を取ると言い復縁を果たす。お岩が病がちになれば疎ましく思い、お梅に懸想されれば乗り換えることを厭わない。お岩の怨念の力でお梅と喜兵衛を切り殺した時も「マズい」とは思っても「すまない」とは思っていなかったろう。伊右衛門の「軽さ」がそれをより際立たせているように思う。伊右衛門だけではない。お梅を後添えにするためにお岩を排除する相談も、彼らにとって重大事は「お梅が後添えにはいる事」であって、お岩の人格は眼中にない。

 『四谷怪談』は、お岩の情念や姿かたちに恐ろしさを覚えるように作られる事が一般的だ。しかし本作では、お岩の貞女ぶりや小平の死してなお忠義を果たさんとする一途さに対比して、伊右衛門らの軽さ身勝手さが目に付く。彼らには非道を行っている自覚はあるまい。自分と周囲の幸福や快楽にしか価値を見出せない。他者への想いやりや想像力に欠け、かつ自覚すらない。楽しげにゲームのごとき軽さで非道を行う。

 現在の社会では、身勝手で視野の狭い料簡が動機になっている犯罪の報道を目にすることが増えた。彼らは自分の事しか見えていない。感情と快楽と欲望の赴くままに行動し、「なりゆき」で人を死に追いやる。さながら伊右衛門の様に。

 伊右衛門たちが大量生産される現代。これほど恐ろしい世の中はあるまい。やはり『四谷怪談』は恐ろしさを孕んだ、この上ない「怪談」であったと思う。