劇評講座

2017年10月13日

秋→春のシーズン2016■入選■【冬物語】小長谷建夫さん

カテゴリー: 2016

凍てつく冬を融かす春の日差しのように

 気高く美しい王妃の臨月近いお腹に、夫でもない男の手が触れた。いや触れそうになった。まさか触れるはずがないが、男の手はまた、高貴な命の宿る柔らかな王妃のお腹を撫でるように動いた。いやそう見えただけだろう。あり得ないことだ。あり得ないが、あの二人の態度はなんだ。顔を近づけ笑い合い、そしてその男の手がまた・・・
 妻の王妃ハーマイオニと親友のボヘミア王ポリクセネスの二人の様子から、シチリア王リーオンティーズの胸に生じた不義への疑惑は、どんな観客の予想をもはるかに超えるスピードで増大する。小さな疑念は、たちまちのうちに凝り固まった確信に昇格し、小さな嫉妬は、永遠に続くと信じていた愛や友情を憎悪へと醜く変貌させる。その憎悪が復讐の念に姿を変えるのは、それこそほんの瞬間の出来事だ。まるで雪山の頂上の凍った梢から欠け落ちた小さな氷の一片が、昨夜積もった雪を蹴落とし、その下の積み重なった万年雪まで動かし、あっという間に谷間を揺るがす大雪崩となるように。
 語り手と動き手を分け、言葉にはその危うさを、動作には不安や疑念、怒りや憎悪、嫉妬等隠された心の息遣いを醸し出す宮城聰の手法は、シェイクスピア劇「冬物語」で冴えわたった。
 静岡芸術劇場に設えられた舞台は、奥まで階段で高くせり上がり、いくつものフレームが歪みながらそれに続く。暗い色調や歪んだ空間が表すものは、人間のどす黒い情念か、はたまた救いようのない業の深さなのか。ともかくもそこに繰り広げられるドラマが、重く苦しいものと直感して、観客は身構えるのである。
 さて暗愚の暴君と化したシチリア王は自らの行動の結果、忠臣に裏切られ、ボヘミア王には逃げられ、王子と王妃を絶望の死に追いやり、あまつさえ生まれたばかりの女の赤子を荒野へ捨てさせ完全に世継ぎを失う。王はアポロンの神託と、王子と王妃の死をもって、初めて自らの間違いに気づき後悔し懺悔するのだが、すでに取り返しがつくわけもない。
 ここで悲劇は極まりすべては終わったのだが、題名は冬物語だ。冬の凍てつきは時の流れとともに溶け春が巡るのである。劇の後半は、癒え切れない悲しみの土壌に根を張った若い希望が萌え出すという喜劇仕立てだ。
 ボヘミアの地で漁師に拾われた赤子は美しい娘に成長し、いつしかボヘミアの王子と恋に落ちる。ボヘミア王の怒りに触れた二人はシチリアに逃れ、そこで娘がシチリア王の姫であることが判明、両国王の和解とともに最後の奇跡を出現させて大団円に向かう。
 宮城は前半の悲劇においては、動き手の動きを抑制し、人形のような所作から心の微妙な揺れを滲み出させ、後半の喜劇においては過剰すぎる動きや踊りで弾けるような春を演出した。
 誇り高き男を演ずれば並ぶ者なき大高浩一。悲しみと苦悩を抱く女を演ずれば追随する者なしの美加理、と決めつけては、役者にとっては却って迷惑なことかも知れないが、ついそんな感想が口に出そうになる。
 大高のシチリア王は、愛情・友情から疑惑、憎悪、怒り、悔恨、絶望に至る心の変容を、美加理のシチリア王妃もまた、喜びから悲しみ、苦しみ、そして望みを絶たれるまでの心の落差を演じ切った。
 それにしてもなんと愚かな王であろうか。
 なまじ力を持つだけに始末が悪い。どんな忠臣の言葉にも耳をかすこともできない。
 誤解という暴れ馬を放置するだけでなく自ら拍車をかけ運命という馬車を断崖絶壁に追いやるのである。
 観客はその愚かさを心の中で嘲笑いながらも、あまりの頑迷さにいつか暴君への怒りの拳を握りしめざるを得なくなる。
 そこに登場するのが重臣の妻、ポーリーナだ。ああ、たきいみき演ずるポーリーナの、胸のすくような啖呵(いやこれは語り手の本多麻紀の啖呵というべきか)に、誰もが心の中で拍手を送ったことだろう。勿論気が晴れたのは観客であって、舞台は果てしない破局へと落ち込んでいくことに変わりない。
 この芝居を観た者は誰でも、心の中で「俺も(私も)、誤解はいくつもしたが、ここまで愚鈍ではなかった」と思い込もうとするのだが、そのうち「いや、身の回りには、小さな誤解、小さな嫉妬、小さな疑惑、小さな恨みつらみ、あらゆるものが満ち溢れている。その組み合わせ次第でどんな醜い怪物が現れるのかわからない。これまでの平安は、たまたまのことだったかも知れない」などと心を揺さぶられるのである。
 娘と王の涙と喜びの再会の後、両国王一行は亡王妃の彫像を見にポーリーナ邸に赴く。生きていると見まがうばかりのハーマイオニ像。しかも16年の歳月を経たとしか思えぬ容貌。動き出した王妃の口からも「娘が生きているとの神託を信じて生き延びてきました」との言葉。すべての登場人物たちが、そうか王妃は生きていたのだと歓喜に浸る。胸のどこかに、16年前確かに王妃の死を見届けたはずだったのにとの小さな疑念を抱いたまま。
 宮城は最後に、原作の不可解な終演を解釈し、美しく不思議に満ちた場面で幕を閉じた。
 王妃は泣いて詫びる王に許しを、跪く娘に祝福を与えた後、時を止めフィルムを逆回しするように元の像に戻ったのだ、ぴたりと。
 奇跡、いや幻覚か、はたまた魔法か。どのように捉えてもいいのかも知れない。王と姫には暖かい春の日差しのような許しと祝福が与えられ、同様他の登場人物たちや私たち観客にもそれは胸の深く深くに染み渡ったのだから。