涙のわけを考えている。
劇評など書いたことはない。が、書くことで何かを解決しようとしている自分がいる。たまたま帰宅後に広げたパンフレットの中に劇評コンクールのチラシを見つけた。これも何かの縁かもしれない。
2019年5月6日、私は比較的新しい友人の誘いで、静岡芸術劇場で上演される「歓喜の詩」を観た。日本の元号が平成から令和へと変わり、狂騒の中で迎えた、人によっては10連休にもなるというゴールデンウイークの最終日。前日の仕事を終え、深夜静岡に向かった。友人から同行も勧められたが、仕事の都合もあり、また人と過ごすことが得意でないこともあって、劇場の席で待ち合わせた。ピッポ・デルボーノという詩人、劇作家についてはもちろん知らない。だからどんな演劇が上演されるのかもまったく予想していなかった。
5月6日の公演は予定開演時間を少し過ぎてはじまった。舞台の準備が少し遅れているとのことだった。床も、背景も真っ黒なステージ。装置ひとつ見えない。照明がおち、再び灯る度に、少しずつ変化する舞台。映像作品であればいとも簡単に創れるものも、舞台でそれをやるとなると秒単位の音、光、舞台装置の同調が必要になるだろう。まず、その手際のよさ、積算された時間に魅了された。しかし、それはこの舞台の表層でしかなかった。舞台の奥から、ピッポ・デルボーノ自身がマイクと紙をもって登場する。舞台には似つかわしくない着古された普段着。劇場の舞台という非日常に日常の姿で現れた彼は、当たり前のように話し始めるのだ。大仰なジェスチャーもない、声を張り上げもしない、当たり前の日常の延長として舞台に登場したのだろう。そして、古き、良き、友の死について語った。ピッポの舞台の多くで主役を演じてきたボボーという俳優の死に触れ、彼との出会いや、ピッポ自身が子供時代に体験したサーカスのエピソード、舞台に立つ役者たちとの出会い、そしてその役者たちが抱える過去、それらを淡々と、時にユーモアを交えて語り、朗読する。そして今は亡きボボーの録音された声が会場に響き渡る。
ピッポは囁き続けた。すこしざらついた、しかし柔らかな声で。舞台には、ピッポと、もうひとり、あたかも私服で舞台装置を転換する男がいた。彼のすべきことは、今は亡きボボーの役割だったようだ。そして、その他の登場人物は舞台衣装に身を包み、鮮やかな化粧で、華やかに踊った。漆黒の舞台の上で、時にそれは亡霊のようにも見えた。
舞台上は、ひとりの男によって、人ひとり分の力で、ゆっくりと変化していく。広い舞台を洋服で覆い、枯葉で覆い、運ばれるベンチや、ぶらさがり揺れ始める照明、それらが漆黒の舞台を、鮮やかに彩るのだ。そして舞台の後ろには日本語でピッポの語る言葉が投射される。時に過去を語り、それは詩へと変化し、また事実をなぞる。そこには明確なストーリーなどない。ストーリーをもった人達が登場するだけだ。そして、その人たちにピッポの言葉が重なる。その重なりに私も何かを重ねていただろうと思う。舞台が終わったとき、ただただ涙が流れていた。拍手は終わらなかった、カーテンコールは何度繰り返されたろうか。
涙はなぜ流れたのか。恐らくは感情のような表面的な心理の変化によるものではなかったと思う。だから言葉にするのが難しいのだ。「喜び」や「悲しみ」そのような涙では決してなかった。ピッポの言葉の中には仏陀の言葉が引用されていた。恐らくはピッポの死生観に影響を与えた言葉だろう。また彼は、ただ一つを求めて、それ以外を求める必要などないと言った。次へ次へと求めることの先に光はないのだと。
世界は物語りを求めている。逆に物語りのないものへの興味は薄く、たいそう冷たいものだ。しかし物語りは一人ひとりの中に、すでに内包されている。私はピッポの慈愛をこの舞台から感じた。それは2019年の世界が手放そうとしているものであり、狂騒の令和元年が忘れてしまったものではないか。皆が次から次へと消費することで、快楽を求める時代が今だ日本では続いてる。そして消費できる者と、消費できない者との格差は広がるばかりだ。
ぼくはきみが愛しい、きみは美しい
そのような言葉をピッポは声にしなかった、けれど、「歓喜の詩」その舞台は、そのように高らかに歌ってはいなかったか。
男がひたすらに紙でできた舟を舞台に並べるシーンがあった。アフタートークの中で、ピッポは移民の話をしていた。何万の人が舟で移民のために海に出ては、海にのみこまれたのだと。恐らくそのシーンは、移民の舟をイメージして創られたのだろう。図らずも、その無数の舟の中の一隻が私の前で倒れた。私は、いまだにそのシーンをよく思い出す。その倒れた一隻には、もしかしたら私が乗っているのではないか?私は沈むのか、誰かによって助けられるのか?そしてその時、私をのみこもうとする海とは何なのか?
舞台が終演し、観客のあらかたが退場した頃やっと立ち上がった私の横で、比較的新しい友人は、まだ深く腰掛けたままだった。そしてメガネを外しては、何度も何度も目頭を押さえ、涙を拭っていた。
さあ、今度はふたりで、涙のわけを語ろう。