「障碍についての映画についての劇についてのミュージカルについてのコメンタリー」
障碍についての自伝、についての映画、についての劇、についてのミュージカル。ロバート・ソフトリー・ゲイルの『マイ・レフトライトフット』は入れ子状の構造をしている。起源には1954年に書かれたクリスティ・ブラウンの自伝『マイ・レフトフット』がある。第2の起源が1989年にダニエル・デイ=ルイス(DDL)主演の映画だ。スコットランド演劇祭での優勝を切望するアマチュア劇団がこの物語を舞台化しようと悪戦苦闘するさまを描くのが、2幕仕立てのミュージカル『マイ・レフトライトフット』である。インクルーシヴでダイヴァースな劇にしたら審査員にアピールできるのではないかという劇団員の軽い思いつきが、次から次へと思わぬ厄介事を引き起こし、ついには劇団の分裂に至ってしまう。脳性まひで片足が不自由な修理工のクリスをアドバイザーとして劇団に招いてはみたものの、障碍者ブラウンの生の真実をストイックに追求するのか、健常者DDLのプロフェッショルな障碍者らしい演技をエンターテイメント的に再現するのかで劇団内に諍いが勃発し、主演男優グラントが役を降りてしまう。
ここでは障碍そのものが主題である。劇団員たちは思い悩む。審査員受け狙いなら、映画版のように、障碍者役を非障碍者が演じるわけにはいかない。しかし、障碍者が障碍者役を演じればそれで万事解決でもない。障碍の軽重という程度の問題がある。クリスの演技を皮肉交じりに論評しながら健常者のグラントが述べるように、クリスの障碍はブラウンほど重くない。クリスにとっても、「ブラウンの」脳性まひは想像上のものでしかありえない。だれも、だれかべつの人間を「素のまま」で代弁することはできない。グラントにしろクリスにしろ、演劇的に説得的な「らしいもの」を捏造せざるをえない。「だれが障碍者役を演じるべきか」という倫理問題が、「どう障碍者を演じるか」という表現の問題と、プロットのうえでクロスしていく。
この二重の難問にたいしてゲイルが提出するのは、笑いという方法だ。健常者と思しき俳優たちがいかにも「それらしい」障碍者の演技をするシーンは、障碍者のステレオタイプを助長し、障碍者の振る舞いを嘲笑っているように見えなくもない。そんなシーンを、ゲイルはミュージカルのなかにちりばめる。しかし、彼自身ブラウンやクリスのように脳性まひである作者兼演出家が、障碍ネタについて自意識的でないはずがない。作者の身を挺した自虐ネタかと思われるブラックジョークの延長線上には、別の意味でスキャンダラスなジョークがある。ブラックな下ネタである。たとえば、障碍で痙攣する中指で彼女を愛撫してイカせてやる、というソング。
障碍者の性、性欲、性愛というパーソナルでプライヴェートな問題は、障碍の真実と演技の真実らしさをめぐるパブリックな議論という縦糸に織り合わされる横糸である。そうした愛が清らかでもプラトニックでもないところに、このミュージカルの生々しさがある。障碍者を、天使でも悪魔でもなく、ただの人間として描いているところに、このミュージカルのしたたかさがある。ティーンエイジャーの妄想をこじらせて先走るクリスが思わせぶりで罪作りなエイミーに向ける一方通行の愛は、恋多き女ジリアンが一方的に押しつけるナイーヴでミステリアスな脳性まひ患者としてのクリスにたいする恋慕とパラレルである。障碍を負い目に感じて社交的になれないクリスの引っ込み思案さは、自分にたいする自信のなさのせいでいつも挙動不審なイアンとパラレルである。みんな同じように悩んでいる。程度の違いはあるけれど、だれかの悩みが特別だったり特殊だったりすることはない。
『マイ・レフトライトフット』の笑いが深いのは、障碍を演じることを真摯に考え抜いておきながら、障碍の演技をコメディーのレパートリーとして取り入れ、障碍のステレオタイプを笑い飛ばすという恐るべき強さを秘めているからである。それはおそらく、
サーカスのピエロやシェイクスピアの道化の笑いに近い。自らを高らかに笑い飛ばし、周りから大いに笑われることによって、自らを貶めるのではなく、自らが自ずと高まっていくような笑いである。
劇そのものには、障碍をめぐる模範解答はないのかもしれない。降板を強いられて劇団を去ったグラントは、2幕で戻ってきたとき、「目覚めた」男になっている。かつての傲慢さを反省し、ADHDであると告白し、自分もまた多少は障碍者なのだと吹聴する。しかし、この自己反省の反転としての自己免罪、唐突であるがゆえに信頼しかねる宗旨替えは、傲慢な見下しと同じくらい問題含みである。結局劇団はまとまらないし、結局コンテストで優勝できない。優勝をかっさらうのは、グラントが再移籍した劇団による『エレファント・マン』である。それはつまり、プロ俳優たるグラントの演じた「障碍者らしさ」が、障碍者クリスによる障碍者役より高く評価されたということでもある。「らしさ」が本物に勝り、エンターテイメントが真実に勝ったようなものだ。
しかし、エンターテイメントであることが重要なのだ。『マイ・レフトライトフット』の音楽は決して目新しいものではない。劇についての劇にラブ・ロマンスというプロット構成は定番である。しかし、『マイ・レフトライトフット』は、ありきたりな表現形式にのっとったエンターテイメント仕立てだからこそ、笑いあり涙ありの王道的ミュージカルだからこそ、「インクルーシヴ」だとか「ダイヴァース」だとか「障碍者の性欲」のような難しそうなフレーズを、観客の考え方や感じ方のレパートリーのなかに自然に滑りこませることに成功するのである。
劇の最後で、ロバート・ソフトリー・ゲイル本人の声が物語世界に介入する。いまだに逡巡しつづけるクリスに「とにかくやってごらんなさい」と告げ、それがミュージカルを締めくくるフィナーレのモチーフとなる。やってみたからといってうまくいくわけではないが、一歩を踏み出したことで、キャラクターたちの生は動き出したようだ。よい未来かわるい未来かはまだわからないけれど、それが正しい足取りかはまだわからないけれど、だれもが始まった地点とはべつの地点にいる。べつの地点に向かって歩き出している。そしてわたしたちは、劇場を後にするとき、やってきたときよりは、障碍にたいして蒙を啓かれているだろう。グラントのように「目覚めた」からではない。障碍がより近くに、より身近に感じられるようになったからである。障碍が自分と遠くかけ離れたところにあるものであることをやめたからである。ここにこそ、『マイ・レフトライトフット』のエンターテイメントな批判力がある。