劇評講座

2019年8月31日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019■入選■【マダム・ボルジア】小田透さん

カテゴリー: 2019

心理劇は野外化できるか、または『マダム・ボルジア』に欠けているもの

もしオイディプス神話が根源的な物語であるとしたら、それはフロイトが考えたのとは別の理由かもしれない。欲望の原型――息子は父を殺し、母を娶りたいと欲望する――を示しているからではなく、起源をめぐる原‐物語――わたしの母は誰なのか、わたしの父は誰なのか、わたしは何者なのか――だからではないだろうか。ヴィクトル・ユゴーの室内楽的な心理劇『リュクレース・ボルジア』を、宮城聰は、母と息子についての根源的な神話的物語『マダム・ボルジア』へと翻案的に演出する。

 「リュクレース」が「マダム」に置き換わっているのは示唆的だ。ユゴーのテクストが描き出すのは「わたしはあなたの母なのです! je suis ta mère !」という最後の一行で頂点に達する壮大な一大クレッシェンドである。ところが、ゴシップから『マダム・ボルジア』の物語世界に引き入れられるわたしたちは、彼女が、妻にして母であることをすでに知っている。

 かなり軽い調子の、チャラいほどにお気楽な調子で劇が始まる。日本のお祭りめいた酒盛りのツマミに持ち出されるあけすけなゴシップから始まる。ボルジア家による毒殺や暗殺、ボルジア家における近親相姦が真実かどうかはわからない。しかし、ルクレチアが子をもうけたことは真実である。子という否定できない証拠がある。しかしそのわずかな真実を、ルクレチアは公にすることができない。ゼンナロが彼女の実子であることが明るみに出れば、ゼンナロの生命が危機にさらされることになるからだ。ゼンナロの命、それこそ、ルクレチアがなんとしても守りたいものである。そしてゼンナロが命をかけてでも明かしたいと思うのは、毎月かかさず手紙をよこしてくれるまだ見ぬ母の正体である。この母の物語と子の物語は見事なまでにすれ違う。狂おしいまでに相手を恋焦がれるその過剰なまでの思慕の逆流の物語である。

 すべては裏目に出るだろう。しかし、オイディプス神話と大きく異なるのは、悲劇的な運命が人間のものであるところだ。神託ではない。人間の行動を縛るのは、人間の言葉である。ひとたび口にされると、ひとたび誰かに聞かれると、ひとたび誰かに与えられると、言葉は、発話者でさえ取り消すことのできない絶対的なものとなる。たとえ感情に任せて飛び出た言葉でも、たとえ一時の衝動でしかなかった言葉でさえも、その後のすべてを縛ることになる。言葉は自縛的であると同時に予言的である。身内を殺された武将たちがルクレチアに投げつける呪詛の言葉、ルクレチアの復讐の言葉、ゼンナロの母を思う言葉、妻ルクレチアが夫アルフォンソに突きつける要請の言葉、アルフォンソが自らの冠にかけて誓う言葉、ゼンナロがルクレチアに強要する告白。わたしのまだ知らないわたしの未来を、わたしの言葉はすでに知っている。

 宮城の演出は駿府城公園という、古戦場を想起させるようなトポスを前提としていたという。だからこその日本の戦国時代を意識した翻案――しかしそのヴィジュアルはゲーム的ジャポニズムを思わせる疑似日本的なものだった――であり、場面転換に合わせて舞台そのものを移動させるという観客参加型の演出――観客は領民としていくつかのグループにわけられ、領主を演じる俳優たちに導かれて席を移る――だったのだろう。しかし、本当に野外であるべき必然性があっただろうか。一方において演出の不徹底――たとえば、観客を誘導するとき、役柄という仮面が外れてしまっている俳優もいれば、役柄のままの俳優もいた――があり、他方には、選戯曲ミスとでもいうべき問題があった。

 ユゴーの劇は極論すれば言語優位の個人的心理劇である。登場人物たちの内面がどこまでも広く深くなろうと、その外面化のためのスペクタクルは必要ではない。比較的小さな空間で、インティメートな雰囲気のなかで演じられる室内楽的なものだ。それに、ユゴーの劇には自然的自然(ナチュラル・ネイチャー)がほとんど介在せず、人間的自然=人間性(ヒューマン・ネイチャー)だけがある。野外劇が自然のエレメントの力を借りなければいけないということはないだろう。しかし、野外空間を生かすには、作品自体を何らかのかたちでもっと深く自然につなげる必要があったのではないだろうか。

 「恋情」や「愛」のような感情を復権させようとする宮城がロマン主義に着目したのは筋が通っている。ユゴーの劇のなかで高まる劇的緊張感は、人間心理という真理のほうに引き寄せられ、普遍的に人間的なものの次元にまで高められる。宮城はいわば人間に共通(コモン)なものを、社会的常識(コモン・センス)という地表の奥深くにある情的な深層に探り当て、そうしたものを経由することによって、彼自身が世界や世界の人間とつながり、観客を世界や世界の人間につなげようとしているのではないだろうか。しかしまさにそのためにこそ、雑多な要素や雑多なジャンルの混淆が求められたのではなかったか。雑多なものがあればこそ、クライマックスにおけるマルチメディア的な祝祭――言葉と身体と音楽の相乗効果によって充溢する舞台空間――がもたらされたのではなかったか。『マダム・ボルジア』の音楽が、物語をその芯から振動させる打楽器的なパルスではなく、物語の隙間にただようアンビアンス的なバイブレーションを基調としていたのはその意味で象徴的だった。宮城の翻案的演出が増幅させたふたつの宴会的場面を別にすれば、器楽的なものをほとんど拒んでいる言語優位的なユゴーのテクストにたいして、音楽隊は外在的であることを強いられる傾向にあった。そして、音楽からの支援を断ち切られた俳優たちは、声の響かない野外空間で孤立無援の奮闘を強いられていた。

 ユゴーの劇は、つまるところ、共同体なき個人の心理劇だろう。それを宮城化した『マダム・ボルジア』には、依然として、ヘーゲル的な言い方をするなら、媒介が欠けていた。個から普遍に一挙に飛躍してしまい、類的カテゴリー――群衆的で匿名的なもの――が抜け落ちてしまっていた。特異な個人の物語が「じつは」普遍的な物語であるというのは、ありえないことではない。しかし、ルクレチアやゼンナロのような突出した個の物語が、わたしたちのほうに架橋されきらないまま差し出されたとき、それは宮城が求めていた「きれいごと」の奪還にはつながらないのではないかという気がするのである。