野外劇の開演前、高低差のある観客席から舞台を見下ろすと、砂の格子がまず目に飛び込んできた。砂の格子は、舞台の床面に規則正しく原稿用紙のマス目のように引かれていて、所々に欠けがあった。
それが固定された舞台の装飾ではなく、本物の砂でたんに引かれた線であることが、はっきりしたのは舞台がはじまってからだ。精神病患者たちが、その砂の格子を必死に避けるようにして、飛び跳ねまわるのだ。
砂というのはそもそも海と陸との境界線によくあるものだ。精神病患者たちの狂気が限界まで高まると、倒れながら、砂の境界線を壊してしまうものもある。
その後、精神科医がふたりと、看護師がひとり、舞台上に入室してくる。彼らの歩き方を見てなるほどと思う。精神病ではないであろう精神科医と看護師は、砂の境界線の上だけを歩くのだ。その歩き方はどこか窮屈で慎重すぎるように見える。
この砂の境界線のルールについては、劇の最初から最後まで、厳重に守られていた。
もちろん、砂の境界線にばかり気を取られていてはいけない。この劇の面白さは、役者たちの鬼気迫る演技にもあるし、言葉遊びにも、ストーリーにも、落日などの自然現象が演出に取り込まれていることにもある。
砂の境界線は舞台装置として常にそこに存在し続け、役者たちの演技によっては、多少崩され、曖昧になっていく。しかし終劇の後まで、大きく破綻することはない。そういうものであるが、シーンによっては強烈に意識させられる。
特筆して印象的なシーンは三つあった。
一つ目、精神病院に入れられた兄の退院を、弟が精神科医に懇願するシーンでは、願いを叶えられなかった弟は砂の境界線の上で祈るように這いつくばる。同じように精神病院に自分自身をぶち込んでくれと希望する主人公の光一も、拒絶され砂の境界線の上に這いつくばっている。
二つ目、劇の最終盤では、光一と、彼の妻が死ぬ原因をつくった六条との対決シーンである。そこで、ふたりはにらみ合いながら砂の境界線の上だけを歩いている。光一は妻と見た目や声が似ている六条のことを妻として受け入れることはできず殺害してしまう。
三つ目は、物語の序盤と終盤に登場する、光一が妻へ宛てたラブレターを砂上に書くシーンである。序盤では砂の境界線を壊さないように行われ、終盤では砂の境界線を壊しながら行われる。
これら三つのシーンを、劇中に登場した、異常の正常と、正常の異常というセリフに当てはめて考えてみたい。砂の境界線の上にいることが正常であり、砂の境界線を踏まないようにすることが異常であるならば、一つ目のシーンからは、正常と異常とのもろくも超えがたい隔たりが感じられる。二つ目のシーンからは、光一は正常であるがために、殺人という行為に至ってしまうことになる。三つ目のシーンでは、人が愛や恋について語るときには、正常と異常との境界がなくなり、むしろ異常に近いような状態になっていることがわかる。
劇の全体を通して、正常な人たちは窮屈に生きているように見える。砂の上よりも、砂のない部分のほうがずっと広い。正常者たちは必然的に猫のように慎重に歩くことを強いられている。
そんな正常者たちが、物事の表層にばかり気を取られているように思えるシーンがいくつかある。自分自身の醜い手を気に病んでいる守衛、落下して中身は潰れたであろう夏みかんは匂いを嗅がれるだけだ。瓶の中に入って抜けなくなった手と、精神病院に入った兄が不気味に思えるのはそれが向こう側にあるからだというセリフ。六条は妻と呼ばれることに執着する。
それから、ほとんど触れ合うことのない光一と妻、その距離感によって、最後まで、光一が死んだ妻を忘れ、六条とくっつくのではないかという疑念を抱かせられ、いや、それで幸せではないかとさえ思わせられてしまう。
結局、光一は妻を忘れられずに、六条を殺害するが、見てくれや声が似ている六条を拒絶し、内面や本質を選んだのだとは到底思えない。やはり、光一が最後まで気を取られていたのは表層だった。その証拠に光一は六条を殺害するシーンでずっと、砂の境界線の上を歩き、正常者であることを気取っていた。彼は、愛や狂気に生きることを拒んだのだ。