サーカス in C
ミニマル・ミュージックにたいする現代サーカス・パフォーマンスからの返答、そう言い切ってしまっていいのではないか。『Scala‐夢幻階段』は比較的単純な主題群で構成されている。左手のドアを開けて入ってくる。右手のドアを開けて出ていく。額を壁に掛ける。額が床に落ちる。床を掃く。ベッドに寝転ぶ。椅子に座る。椅子がグニャりと崩れる。グニャりと崩れた椅子が元に戻る。グニャりと崩れる椅子に合わせてパフォーマーの体もグニャりと崩れる。元に戻る椅子に合わせてグニャりとしたパフォーマーの体が元に戻る。トランポリンに倒れ落ちる。トランポリンに跳ね返される。階段を降りる。穴に消える。階段を降りる。穴に落ちる。
同じ動作が反復される。ひとつひとつ別々に取り出せばとりたてて面白いわけでもない動作が、ひとつひとつとしてはクスりと笑わせてくれたりオッと驚かせてくれたりする程度でしかない小ネタ群が、一定のリズムで、軽快なスピードで、ノンストップで反復される。おそらく夢の世界の出来事なのだ。ベッドに入るたびに、扉から出ていくたびに、階段下の穴に消えるたびに、ひとりがふたりになり、二人が四人になる。まるで分身だ。微妙に異なる分身たちが、ソロで、ペアで、集団で、微妙なズレを伴うコンビネーションを執拗に反復する。
そこでは模倣やシンクロが自然なレパートリーとなる。カノンやフーガのように、ひとりがべつのひとりの行為を後追いし、空間的なコンポジションが描き出される。初めはランダムに見えたものが、繰り返されるうちに、パターンになっていく。小さなパターン群が大きなパターンに発展していく。7人という中規模なパフォーマンスに物量的な押し付けがましさはないし、個人技のひけらかしもない。ここにあるのは、複数人のフローが作り出す関係性の説得力である。寄せては返す小さなさざ波が次第に大きなウェーブとなるように、ミクロな反復からマクロなウネリが生まれる。数秒のスパンで延々と繰り返されるGIF画像や逆再生動画のように、機械的な反復でしかないと思われたものから、有機的な鼓動が生まれてくる。何かが内側から湧き上がり、噴き出し、膨れ上がり、巨大なクライマックスそのものになる。そしてわたしたちは、渦潮のようにダイナミックな関係性のなかに引きずりこまれ、その高揚感の一部となる。テリー・ライリーの『In C』のように。
ヨアン・ブルジョワ演出の『Scala‐夢幻階段』に物語内容を見つけようとするのは、ほとんど意味がないだろう。現代サーカス集団が作り出したのは、デジタルな機械的反復と、アナログな差異的反覆との相乗効果による、パフォーマーとオーディエンス双方の肉体のパルスの共振的増幅だ。階段から落下してトランポリンに跳ね返るという動作には、空中ブランコのもつ本能的なスリリングさはない。ピエロのペーソスもユーモアもない。ヨアン・ブルジョワが作り出したパフォーマンスは、きわめてモノトーンで、ドライで、非人間的ですらある。大きな階段が中央にそびえる段々状の薄青の舞台はホラー仕立てで、舞台空間には不気味さや薄気味悪さがただよっているものの、そこで繰り広げられるパフォーマンスはむしろナンセンスなもの、意図的に無意味なものである。しかし、その無意味性が、わたしたちを深く揺すぶる。
それはおそらく、べつの身体が、わたしたちの日常生活世界ではありえないような奇異なべつの身体動作が、『Scala‐夢幻階段』のなかで絶対的に自然化されるからだろう。ふたつの不思議な身体があった。ひとつはタコのように優雅な、軟体的身体である。パフォーマーのまわりの空気が粘液に変わったかのように、彼女ら彼らの肉体はなめらかに曲がり、ゆっくりと旋回する。そのような肉体のまわりにはスローモーション的な時間が発生する。たとえば、女のパフォーマーが頭から穴に入り、倒立したまま回転し、足を上にして穴から這い出してくるとき。たとえば、ブリッジのまま節足動物のように動きまわるとき。もうひとつは鋼のように剛直な、棒状身体である。男のパフォーマーたちは上半身を固めたまま、ときには下半身まで一本の線のように固定したまま、トランポリンに身を投げ出し、跳ね返ってくる。ここでも彼らの肉体のまわりにはべつの時間が出現する。巻き戻る時間、または、振り子のように行きつ戻りつする時間だ。
パフォーマーがみな一様に執拗に、歩くときは身を二つに折り足首に両手を添えて前に押し出してやらなければいけないとでもいうかのような動きをするとき、階段を降りるときは膝をそろえて右手をついて尻を滑らせてから手を膝のうえで組んで首を垂れなければいけないとでもいうかのような動きをするとき、舞台の上では、それ以外の動きがありえないかのような、それ以外の動きのほうが異常であるかのような、異様な雰囲気が作り出される。それがホラーチックな舞台とよくマッチする。反復されるものは、まさに反復されることによって、そうでしかありえないという幻想を作り出す。
『Scala‐夢幻階段』がかたちにしていた、わたしたちの身体のべつの解剖学的可能性――器官なき身体――は、圧倒的に雄弁だった。しかし、にもかかわらず、そのような器官なき身体がわたしたちを深く深く居心地悪く揺さぶりつづけるばかりだったのは、それが、現代世界における根源的なホラーの表象だったからかもしれない。徹底的な受動性である。まるで全身の骨が溶けてなくなってしまったかのようにパフォーマーの体がグニャリと崩れ落ちるとき、その引き金を引くのはパフォーマーの腰かけている椅子である。まるでタコのように柔らかくなるパフォーマーの体が穴にずり落ちていくのは、そこに穴があるからである。逆再生のようにパフォーマーの体が元に戻るのは、トランポリンが跳ね返すからである。極められた受け身のアクロバティックさには、催眠的で陶酔的な愉悦があるが、それは、積極的意志を欠いた強制的反復でもある。もしかすると、あれはデジタルなゾンビとでもいうべきものだったのかもしれない。『Scala‐夢幻階段』のパフォーマーたちの器官なきべつの身体は、わたしたちにかわって、おぞましくも美しい、眺めるには魅惑的でも自らそうなりたいわけではない悪夢のかたちを生きてみせてくれていたのかもしれない。