アユタヤ遺跡の破壊された仏像群は、ビルマとの戦闘の歴史であることは知っていた。そのような時代、その場所に日本人が住み、活躍していたことに思いをはせると感慨深い。
静寂のなか漆黒の闇のなかから舞台が始まる。照明とともにセミの鳴き声が聞こえはじめ、蒸し暑さを感じるアユタヤの世界に引きずり込まれていく。張りつめた緊張感を漂わせながら舞台は進んでいく。
「メナム河の日本人」の壮大な物語は、王宮と日本人町とリゴール地方の3つの場所で展開していく。王宮での謀略・策略の緊張感と日本人町での祖国を懐かしむ思いとリゴールでの先を思う不安感と3つの場面設定の中で緊張と弛緩が繰り返されて、増幅させながら物語は展開する。その中で山田長政が見せる、強い生き方とやさしさと孤独感が折り重なって物語に厚みを与えていく。
長政は、日本での現状に耐え切れず、野心を抱き国外に活路を見出そうとするも、こころ許せる友が居たわけではなく、策略・謀略の渦中で、状況を敏感に察知しながら自分の立ち位置を決めていく事になる。王宮での主要人物との駆け引きは、次の手が見えにくいだけに緊張感が漂う。その中で言葉を発しないスリヨタイ姫を笑顔にさせようとする長政は、好意の念だけではなく、謀略や策略の渦中で必死にバランスをとろうともがいている姿が、刀での軽業に投影されているように見える。他人を陥れながら自分の地位を確立していく事は、本意ではない。自分は、本当はそのような人間ではない・・・という思いを発している様にも感じられる。
長政にとってペトロ岐部の、考え方・思想は相反するものでありながら、過剰に意識している演出は、長政の内面が近しいものを抱いていた事を想像させられる。人間の中に潜む二面性は、王宮の中で上り詰めていく自己(仮面)と、自分が生きてこなかった自分(影)すなわちペトロ岐部の生き方・考え方に重ね合わせることもできる。
孤独であるが故、そして共感できる何かがあるが故、ペトロ岐部に対して傾倒しないように反発しつつも日本人町で共に活動することを切望した。長政から見てペトロ岐部は、信仰のためにマカオに脱出しゴアを経て、ローマで学びそして再び祖国の信者のために死することも覚悟して帰国を志す強靭な信念の持ち主であり、尊敬にも脅威にも感じたのではないか。
王宮内で言語的駆け引きしていく過程での、舞台の緊張感は素晴らしい。次に何が来るのかわからないところでの、「間」は、さらに緊張度を高めてくれる。
その中で言葉を発しないスリヨタイ姫の無言の存在感は際立っている。
シーシン親王を撲殺する場面で、残忍さ惨たらしさを出さずに、穢れなき純白の布をまとった親王がぐったりと動かなくなると淡い赤い照明が親王を包み込み「死」をイメージさせる。そして、執行人が肩に親王の命の重みを感じさせながら、退却していく・・・避けて通れない死の場面を美しく演出している。
女官スチャダーが、クンサワットとの謀略のなかでの性的な関係性をほのめかすしぐさは、帯び紐を撫で上げるような軽い動きで、巧みに格調高く演出し、演劇の中での表現の豊かさ崇高さを教えてくれる。指の先まで感情が込められている演技は、観客を舞台に引きずり込んでいく力がある
長政は毒殺される過程で、視力を失い、幻影としてのスリヨタイ姫、ペトロ岐部が現れる。眼に見えるものしか信じない生き方、もしくは眼に見えるものしか信じないように努めてきた生き方が、崩れていくように描かれている。そして長政の二面性の影の部分が現れ、暗闇の幻影の中でスリヨタイ姫を和ませようとしたり、ペトロ岐部に親近感を持ちつつ語りかけようとしている。そこに、立体的に人物像が浮かび上がってくる。
対して、ペトロ岐部は、一貫して祖国で信仰を続けている人達のために殉死することを選択し結実する。
最終的に、遠藤周作の訴えたかったことは、何であろうか。俗物的な自力主義は苦しく困難で、環境に従順な他動的人生の方が平安は得られやすい。
地位や名誉は虚しい、大切なものは目に見えないところにある。
しかし、人生論めいたことを主題にしているよりも、もう少し違う何かが感じられる。
時代は異なれ、歴史上の偉大な人物、信長であれ道元禅師であれ、突き詰めていくと孤独・死・虚しさが漂ってくる。
長政とペトロ岐部二人の末路を見ると、人は地位や権力など目に見えるものに限らず自分の中の理想に固執して、身動き取れなくなっていく。2人とも理想を追い求めた信念の人であったが故の死であった。そしてそんな、愚直な人間は孤独であり、時に大事を成し遂げる。
「全て含めて成功も失敗もない。これこそが素晴らしい人生なんだ!」と提示しているように感じられた。
人と人とのコミュニケーションの大半は、ノンバーバルコミュニケーションであり、言語が3割程度であるとするならば、その両方を、存分に味わうことが出来る作品が「メナム河の日本人」であった。