劇評講座

2020年10月20日

秋→春のシーズン2019-2020■入選■【グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~】小田透さん

カテゴリー: 2020

人間的不自然さの彼方にある奇跡的な自然に

 オリヴィエ・ピィの『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』の物語は民話的な形式にのっとっている。匿名のキャラクターたち――父親、悪魔、少女、王様、庭師――が、どこともつかぬところ――森、庭、水車小屋――を、移動していく。そして、父親を恨むこともなければ、王様を憎むこともない、すべてをありのままに受け入れて受け止めることのできる純真な自然児である少女が、悪意というよりは軽率さによって罪を犯した父と、彼自身のものではない罪の咎を負わされた王とを、救ってしまう。

 無数の名前を持つ黒い悪魔は、わたしたちの影のような存在であるらしいから、おそらく消えてなくなることはないのだろう。彼はただ舞台から退いていくだけである。アコーディオン弾きの守護天使にしても、本当に神の使いなのかは、定かではない。この世界には超越的な神など存在しないかのようである。奇跡の力は自然にある。季節のめぐりとともに命を生み出し、育んでいく自然こそが奇跡なのだ。春の訪れが新たな芽を生むように、切り落とされた少女の手を再生させるのだから。自然は奇跡であり、奇跡は自然である。

 ここには不思議なひねりがある。もし民話が物語による教育であるとしたら、ピィの戯曲が伝えようとしている教訓は何だろうか。狂言回し的な役割を担う天使は、エピローグの前に、王様が最後に述べる言葉に注意を払ってくださいとメタ的なコメントをする。王様の最後の言葉とは、奇跡にたいする驚きについてのものだ。奇跡が起こる可能性にわたしたちが閉ざされませんように、奇跡にたいする畏れと驚きと歓びにわたしたちが開かれていますように。そんな祈願の言葉がエピローグとなり、折り紙を山折り谷折りして作ったかのような台形の白い舞台と、その両脇にある折り紙仕立ての木々が、原色の光に包まれ、芝居が終わる。

 舞台はミニマリズム的に切り詰められている。もともと具体的な参照項をもたない戯曲を、宮城聰はさらに抽象化する。舞台中央にしつらえられた場にしても、その両脇に置かれた木々や動物たちにしても、折り紙的な姿かたちをしている。具象的ではない。動物には顔がなく、木々には葉がない。輪郭はあるが、細部はない。さまざまな角度の斜線があちこちに走っているから、直線的で鋭角的な印象を与えることはないけれど、白一色という色づかいと相まって、独特の空虚さがある。

 そのように作り上げられたのっぺらぼうな人工性のなか、俳優たちは、漫画の一コマのような、絵本の一ページのような演技を断続的に繰り返していく。白い背景は影絵のためのスクリーンとなる。前景の肉体と後景の影絵が、ひとつの身体からふたつの像を作り出し、平面的な舞台に奥行きを生み出す。しかし、それらは決して滑らかには繋がれないだろう。コマとコマのあいだ、ページとページのあいだの移行部分を担うのは、照明による暗転だ。舞台が暗闇に包まれて再び明るく照らされるたびに、紙芝居の挿絵が入れ替わるように、身体のポーズが変化し、場面が転換していく。ストップモーションの非連続的な連続は、絵本を舞台化するというよりも、舞台を絵本化する。動きではなく、動きの不在が表象される。けれども、それを、生身の身体という動くことを本質とする媒体に担わせることで、舞台には独特の生硬さが出現する。不自然さといってもいい空気感である。

 動く身体をあたかも動かない像であるかのように表象するという矛盾――ムーバーとスピーカーというふたりによる分業体制を、たったひとりでこなさなければいけないという難題と言い換えることもできるだろう――がどこまで演劇的に止揚されていたかということになると、俳優たちのあいだでかなりのバラつきがあったし、役柄の性質に影響されている部分も大きかった。運動と不動の弁証法を独自の表現にまで高めきることができていたのは、おそらく、王様役の永井健二だけだろう。彼だけが、静止のもつ鋭角性と、運動のもつ流動性と、断片的なセリフという相互に異質な要素を、どれかひとつに引き寄せることなく、異質なままに彼の身体と言葉のなかに共存させ、協働させていた。悪魔役の武石守正は、早口言葉的に饒舌なセリフに体を寄り添わせるように、コミカルな所作のキレを強調していたと言っていいだろう。静止するポーズにいたるまでのスピードと、狙ったポーズになるように体にブレーキをかけるという停止のモメントに重きを置いていた。

 もし父親役の大内米治と庭師役の大道無門優也の身体が、セリフの抒情性に引きずられるように、ある種の柔らかさをただよわせてしまっていたとしたら、少女役の鈴木真理子は、あまりにも見事に身体を統御しきった結果、演劇的というよりは器械体操的な肉体美を見せつける結果になってしまっていたと言ってよいかもしれない。それどころか、彼女が表現のためのマテリアルとして自らの肉体を巧みに使いこなせば使いこなすほど、ただでさえ象徴的でエーテル的なセリフがますます身体から乖離していくことになってしまっていた部分があった。たしかにこの少女には、自らの発する言葉の意味を自分でも完全に理解できていないかのようなところがあるし、彼女の声や体をつうじて何か別の大きな意志が語っているかのようなところがあるのだから、鈴木真理子がやってみせたように、肉体から言葉を浮遊させるという方向性もありえないではないし、宮城の演出はそのような方向性を許容するどころか推奨するものではあったけれども、彼女の作り出したお人形的な人工性は、E・T・A・ホフマンの怪奇譚にこそふさわしいものであり、グリム童話の主題にもとづく変奏曲ともいうべきピィの作品が求める、人間的不自然さの彼方にある奇跡的な自然のための表現としては、現世的すぎたきらいがある。

 ピィはグリム童話から教訓性のようなものを剥奪し、世俗的な現代世界においてはもはや信じることすら愚かしいと思われてもしかたのない奇跡という超越性をどうにかして舞台の上に出現させようとしているように思う。それはグリム童話という歴史的にも地域的にも特殊ではあるけれど、民衆的であるがゆえにある程度までは普遍的でもあるような素材から、普遍的な可能性を探り当て、それを軸にして物語を再構成するような芸当だろう。

 具体的な教訓と言えるようなものは、おそらく、ここにはない。宮城の演出は、折り紙的な装置と絵本的な所作によって、ピィの物語をいっそう抽象化することに成功したがゆえに、その核心に据えられた「奇跡にたいする驚き」という抽象的な普遍性を、ピィ以上に強調することができていたのかもしれない。ここでわたしたちのために讃えられていたのは、世界にたいする開かれた態度であり、陰鬱な現実に立ち向かう自然の奇跡のしなやかなつよさである。