ビブリオバトルというイベントが広まり出してどれくらい経つだろう。
「知的書評合戦」とも言われ、制限時間5分でおススメ本を紹介し、「どれが一番読みたくなったか?」を基準とした観客投票の結果、チャンプ本を決めるというものである。
たまたま地元で、中学生大会を観る機会があった。
驚いたのが、10人中9人が日本の作家を取り上げた事である。勿論、どの国の作家を選ぶかは出場者の自由だ。しかし、『人間失格』や『こころ』、あるいは流行作家の作品と並んで、『赤毛のアン』や『三国志』の名があがってもいいのではないか。そんな事を考える内に、こんな田舎の中学生にもナショナリズムが浸透している気がして、暗澹たる思いがこみ上げて来た。
『ペール・ギュントたち~わくらばの夢~』の演出ノートで、ユディ・タジュディン氏は、「今日のいよいよややこしく、いよいよつながった世界では、新たな種の恐怖と不安が高まっている」と記している。
メディアやSNSなどを通して外国の情報がたやすく手に入る一方、それら「他者」に対する怖れがデマや煽動を促し、人々をあらぬ不安に陥れる。結果、排斥を伴う保守に偏った考えを生み出してしまう。
本プロジェクトのアイデアを、ユディ氏は自国インドネシアのフローレス島で得たという。イスラム教徒がほぼ9割を占める同国にあって、この島にはキリスト教の信仰が残っているという。1万3千以上ともいわれる島々が、いかに多様な民族と宗教の支配にさらされていたか思い知らされる。土着の信仰と結びついたキリスト教の祭りは、この芝居の根幹を成す。イスラム化されずに残るキリスト教の世界で、<移動するもの⇔留まるもの>に思いをめぐらし、劇団が選んだ題材が『ペール・ギュント』であった。
言わずと知れたノルウェーの劇作家イプセンの名戯曲。19世紀、ヨーロッパの僻地であった同国を主軸に描いた作品だ。主人公のペールに、変わりゆく世界から逃れようとして外国に旅立たざるを得なくなった、不安に駆られる21世紀のアジア人の姿を重ねた。
冒頭は、先に述べたフローレス島での祭りを想起させる。
流木のような長い棒を頭に乗せた人々が、原始的なリズムと共に舞台に一人、また一人と現れる。まるでここは椰子の実が流れ寄る浜辺のようだ。国籍の異なる俳優たちの個性が、これまでに漂着してきた多様な民族をそれぞれ背負っているようにも見える。
下手にある塔は時計台だろうか。11時を指している。
上手には無機質な小部屋が1つ。室内には塔とは違う客席のリアルタイムを刻む時計と、3脚の椅子が用意されている。
やがて私はミシンを踏む老女を発見する。ペールの母、オーセだろうか。あるいはソルヴェイなのか。
ペールの生涯の恋人であるソルヴェイは、華やかな音楽が奏でられる日に彼の前に現れた。戯曲のト書きに西から来たと書かれている彼女もまた、漂着民なのだろう。南北に険しい山脈を貫くノルウェーでは、西と東で人々は分断されていたに違いない。まるで玉突きのように、ソルヴェイに代わりペールは世界へと飛び出して行く。
舞台に用意されていた椅子は、3人のペールのための椅子でもある。
彼らは口々に自分の思いを語り、散り散りに冒険へと出かける。そこでまた、一人のペールは再びソルヴェイとアニトラという女性に出会う。アニトラは、戯曲の中では魅惑的なアラビア人女性として登場する。
ここでアニトラ役のヴェヌーリ・ペレラが吐露するのは、スリランカの動乱についてである。同じように、各国の俳優が自国での出来事を『ペール・ギュント』の物語の1ピースとして語ってゆく。
とあるインドネシア人の俳優は、こう語り出す。
イスラム教の寄宿学校で、私は育った…。その教育は厳しいものだった。やがて成長した私は、難民キャンプを訪れる。紛争や暴力から逃れこの地に辿りついた彼らは、何処へも行けずただ留まり続けている…。
戸惑いのなかで彼は、自分に何が出来るのか問い続ける。同じイスラム教徒でも、国籍も、言語も、背景も違う。そんな大多数の難民と、いかにコミュニケーションを取り、救済に取り組んで行くのか。
インドネシアの何処かにひっそりと存在する難民キャンプが、私の脳裏で日本の入国管理局と重なった。彼が個人として受け取った苦悩を、己は国の問題だと割り切ってはいまいか。俳優たちが投げかけてくる問いは、国際社会が生み出す歪みそのものであり、決して対岸の火事では無い。
それらピースの一つ一つが、現代アジアの<移動するもの⇔しないもの>にまつわるエピソードである。彼らは居丈高にイデオロギーを叫ばない。ただ、起こった出来後を順序立てて話すだけである。現実の凄みが、虚構の中でじわりと背筋に押し寄せてくる。
ペール・ギュント全5幕のなかで、討論劇ともいえる4幕のために用意された3脚の椅子に俳優たちが代わるがわる腰かけていく。ここでもまた、<移動するもの⇔留まるもの>たちが世界の縮図として現れる。論客の一人が室内の時計を、塔と同じ11時に巻き戻す。やがて舞台上のすべてが、冒頭のフローレス島での祭りの場に変容する。
ラストシーン、旅にやつれたペール(川口隆夫)が圧倒的な身体表現で漂流の果てを現出する。疲れ切ったペールの身体を、オーセに代わりミシンを踏み続け、ペールを待ち焦がれていたソルヴェイ(館野百代)が出迎え抱きしめる。
途中、ピースの一つとして語られたファストファッションによる貧困層の消耗が、ある種ステレオタイプなフェミニストとして登場したソルヴェイに、プロレタリアという別の背景を与える。
そしてペールとソルヴェイの背後で祭りの中心にあるのが、縫い上げられた布でぐるぐる巻きにされたオーセ、いや土着のマリア(美加理)の偶像である。時計台と双璧を成す高さに、うつむきがちな女性の美貌がある。外国からこの島にもたらされ、土地の神々と融合したマリア。旅に疲れ果てた人々が帰る場所。この演出が示唆するように、漂流民ソルヴェイこそがマリアなのだとすれば、私たちが信仰する自国の神々の足元は揺るぎ、歴史の浅いナショナリズムと共にあっけなく崩壊する。
土偶となったマリアの前に広がるのは、かつて陸続きであったかもしれない果てしない海。
グローバル化が逆説的に呼び起こす分断された世界のなかで、我々人間はやはり共同体なのかもしれないという、一条の光をそこに見つけた。