劇評講座

2020年10月20日

秋→春のシーズン2019-2020■優秀■【寿歌】佐野あきらさん

カテゴリー: 2019

円環と重力

 観劇後の余韻が数日経っても残っている。舞台の濃密だった時間の続きに今もいるようだ。数年ぶりに演劇を観たせいだろうか?それもあるかもしれない。でも、それだけではない気がする。私は10月13日の体験を意味付けするためにもこの劇評を書こうと思った。
 
 『寿歌』は核戦争後のミサイル飛び交う関西地方での物語だ。リヤカーを引く旅芸人のゲサクとキョウコは旅の途中でヤスオを仲間に加え、珍道中をはじめる。奥野晃士のすっとぼけたゲサク、たきいみきがエネルギー全開で演じる溌溂としたキョウコ、春日井一平の真面目さが滑稽なヤスオ。舞台上で繰り広げられるトリオの「エエカゲン」な漫才は三者三様の魅力が溢れ、大いに笑えた。けれど、笑えば笑うほど、彼らと距離ができてしまう奇妙な困惑が観劇中の私にはあった。
 
 この戯曲は40年前に北村想によって執筆された。戸惑いの原因のひとつは「古典」というにはまだ新しい『寿歌』の書かれた時代を私がいくぶんか想像できてしまったことだろう。1979年という「過去」に空想された「未来」は台詞や歌謡曲を含め否応なく当時の社会情勢を想起させる。「核戦争後」という設定自体、米ソ冷戦を背景にした不安だろう。幸運にもその未来は回避された。けれど、2011年の震災を経験した私はどうしても思ってしまう。『寿歌』の世界は私たちの未来の姿であるかもしれない、と。1979年に描かれた未来と2019年に演じられる未来が時に重なり、時に離れ、居場所を確定できない浮遊感と共に私は観客席に座っていた。
 
 そして、完成度の高い舞台装置もまた私を困惑させた。メビウス型の回廊は、行き場のなさを際立たせ、役者たちの動きも拘束する。地面を覆うゴミのカラフルさとは対照的に閉塞感の極まる舞台。役者のまとう抑えた色調の衣装も荒廃した世界の存在感を強調する。観客席から役者の立つ舞台は厚いガラスで仕切られた箱庭のように見えた。3人はその中で光るホタルだ。「ほんまいうとあのミサイルはわてが飛ばしたんです」と言うように、ゲサクの夢想した世界に3人は閉じ込められているのかもしれない。8の字の回廊は不死身のヤスオが体現する無時間性の象徴にも思える。役者たちは肉体と声をめいいっぱい使って必死にその厚い膜を破ろうとしているように映った。
 
 「観客はいつの時も眼に見えんもんです。眼に見えるのは自分の眼だけです。自分の眼のためにやっとりゃええんです。」始終とぼけているゲサクの本音と共に、3人が幻の観客に向けて漫才を披露する場面がある。照明は観客席を照らし、ヤスオが「物品引き寄せの術」を使い、ロザリオを客席に向かって放る。ここはトリオの決意であると共に演出家が役者に芝居への覚悟を問う試練にも思えた。実は私が観た初日の舞台では、役者観客共にこの場面を受け止め切れなかったように感じた。舞台美術があまりにも成功し過ぎていたからだ。後日の公演ではどうだっただろうか。
 
 こんな困惑がありつつも、『寿歌』は私の心に色濃く残る舞台になった。なぜか。それはラストがあまりにも素晴らしかったからだ。
 
 終幕間際、ゲサクとキョウコはヤスオと別れることになる。芸に失敗したゲサクの背中はピストルの弾丸で穴が開いている。一方で同じく撃たれたヤスオの傷は癒えている。ゲサクと二人で旅を続ける決意をしたキョウコが歌を歌う。…そして雪が降り始める。
 
 この瞬間が強烈に印象に残った。
 
 90分の間閉ざされた舞台上で抑圧され、凝縮し続けたエネルギーが最後の最後で一挙に客席になだれ込んできたからだ。雪の中でリヤカーを引く二人を見ながら、舞台に未来へ向かう時間が流れはじめたと思った。舞台上の動きは円環の中での水平運動から、雪の降る垂直運動へ変わった。円環に穴が開き、世界は重力を取り戻したのだ。役者と客席の膜が破られ、二つの時間が繋がった瞬間だった。
 
 舞台から客席に流れはじめた時間は、キョウコの歌う寿歌が小さなホタルの命を祝福するように、あたたかいものだった。その余韻が今でも続いている。
 
 これから世界は厳しい冬に向かうのかもしれない。その切なさの傍らで輝くのはキョウコの存在だ。ためらいなく股を開こうとし、撃たれたゲサクを残して逃げようとする彼女は、したたかで、どうしようもない奴だけれど、どんな状況でも「生きていること」を肯定できるあっけらかんとした明るさがある。たきいみき演じるキョウコはいつもゲサクの作った世界から少しはみ出していた。
 
 時代性と象徴性の間で揺れながら観た10月13日の『寿歌』は私にとって忘れられない舞台となった。

※文書中の台詞の引用は 北村想『寿歌[全四曲]』白水社2012年刊による