「過去は忘れたい、未来は知らない」――問いを上演する
幕開けからおそろしく情報密度が高い。情報量で圧倒してくるのではない。情報が多様に多層的なのだ。杖をついた老婆が舞台左手前の足踏みミシン台に腰かけ、悠然と縫物を始める。すると、軽く湾曲した弓なりの棒を頭の上に載せ、スーツケースを抱えるパフォーマーたちが、舞台の両側からゆっくり入ってきて、それがいつのまにか踊りに転化している。強いビートの音楽が鳴り出す。同じようなパターンの身振りだが、その速度にしても強度にしても、ひとりひとりが大いに異なっている。早送りとスローモーションがシンクロし、不思議な空気が出現する。そのあまりの濃密さに、見ているほうの脳の情報処理が追い付かない。つねに複数の時間が流れ、つねに複数の空間が共立している。メインとなる空間に立つ者たちとは別の時間軸に属する者が舞台のどこかに必ず佇んでいる。さまざまなものが交錯し、そこから、現代社会のなかの声なき存在の声が聞こえてくる。
インドネシアを代表する芸術家集団テアトル・ガラシを主導する演出家ユディ・タジュディンたちとパフォーマーたちの共同創作である『ペール・ギュントたち』は、徹底的に多的なパフォーマンスを提示する。タジュディンたちがアフター・トークで述べていたように、現代世界は物理的にも仮想的にも、ますます繋がっていくが、そのせいで、繋がろうと望んだわけではない繋がりも生まれ、その結果、繋がってしまった他者にたいする不安は増大していく。繋がり、近くなったのに、恐れはむしろ膨れ上がっていく。グローバル化の逆説的効果だ。そうした現代的窮状を舞台のうえで具現化すること、しかしそれと同時に、その窮状を問題視し、問題化するための問いを上演すること――そうした二重の課題を、『ペール・ギュントたち』は自ら引き受けていた。
タジュディンたちの共同創作は、そのような重量級の主題を取り扱いながら、エンターテーメント性を手放そうとはしないし、それどころか、むしろエンターテーメント性を積極的に取り入れることで、シリアスなパートを批判的に際立たせる。痛切な告白の言葉は、ポップな歌やエキサイティングなダンスによって中和され、語られた内容にたいするわたしたちのセンチメンタルな共感は宙づりにされる。しかし、周期的に戻ってくる生々しいパーソナルな語りが、わたしたちを幾度となく、自問自答へと誘う。「この不幸はなぜあるのか」と。
『ペール・ギュントたち』は2つの方向からヘンリック・イプセンの原作を脱構築する。ひとつ、この戯曲を、ペール・ギュントのピカレスク的遍歴としてではなく、彼が踏みにじることになる女たちのほうから逆照射するように読むことだ。もうひとつは、アフター・トークのなかでドラマトゥルグのウゴラン・プラサドが語っていたように、イプセンの『ペール・ギュント』のなかでもっとも上演しづらい4幕――ゲーテの『ファウスト』第2部の直系の子孫と言ってもよい箇所――を増幅することである。しかし、ファウストがメフィストフェレスとともにギリシャ・ローマ神話世界への壮大なグランドツアーに出かけるのにたいして、イプセンのペール・ギュントは19世紀半ばの中近東の植民地世界でひとり豪遊する。ときに資本家として、ときに預言者として、ときに学者として。このあからさまに帝国主義的で、あからさまにオリエンタリズム的なグランド・ツアーの余白に、タジュディンとプラサドは、現代世界における難民や移民の問題を書き込んでいく。そこでは、キャラクターの仮面が外れ、俳優の素顔が現れる。そしてキャラクターの生がパフォーマーの生と交錯し、重なり合い、ひとつに繋がっていく。
「わくらば(病葉)の夢」という副題は決定的であるし、「Asylum’s Dreams」という英語原題はさらにストレートだ。精神病院の夢。けれどもasylumには別の意味もある。避難所、聖域という意味が。そしてこの二重の意味をタジュディンたちは攪乱させる。狂っているから故国喪失者になるのではない。故国を奪われ不安定な生を強いられるから、狂うのだ。だから放浪する難民移民たちは狂おしい夢を見るだろう。スリランカの政情不安、強権軍事政治へのノスタルジア。イスラムの寄宿舎、教え込まれる敵の意識。縫物への憧れ、シャドーワークという搾取。ベルリンでのホームレスとの会話、HIVをめぐる問題。
パフォーマーたちが役柄の仮面を脱ぎ捨て、現実の生きられた経験に根差したパーソナルな告白を始めるとき、舞台の共通言語である朗々とした英語に、母語のぶつぶつとしたつぶやきが混ざりだす。そして彼女ら彼らの身体は痙攣し始める。言葉や意味にはならないけれど、たしかにそこに存在している何かが、身体を通じて表出される。身体がその「何か」になる。言語的な意味とは別の身体的な表出のレベルにおいて、アクチュアルでクリティカルな問いが上演される。
劇前半のフェミニズム的批判と、劇後半のプレカリアート的狂気とを考えると、最終場におけるペール・ギュントの救済は、原作以上にご都合主義にうつってしまうが、これもまた、タジュディンたちの問いの上演なのだろう。母性を体現する母オーセと、故郷を体現する永遠の恋人ソールヴェイは、ペール・ギュントを赦すというのか? だが、わたしたちは本当に彼を赦してよいのか? そうした問いを提起するためにこそ、ペール・ギュントたちは複数化されたのだろう。舞台前方左手では、舞台後方の高みに静かに立つ喪服姿のようなオーセに見守られて、ペール・ギュントのひとりがソールヴェイの膝のうえにうずくまり、母体回帰を象徴するかのように、彼女とひとつになる。しかし舞台の逆側では、残りふたりのペール・ギュントたちが、それとシンメトリーをなすかのように、男同士で抱き合い、そして、そのうちのひとりが再びプライヴェートな告白を始める。
スーダンの難民キャンプにいる男の話だ。「好きな歌はある?」劇中で何度も唐突に差し挟まれるこの問いは、寄る辺なき現実世界のなかで生き抜かねばならない彼女ら彼らでさえ、その心のうちには、依然として故郷のようなものを携えていることを、ユートピア的な過去の記憶を持ち合わせていることをほのめかす希望のモチーフであったが、最後の最後にきて、それが役に立たなくなってしまう。スーダンの難民キャンプにいるアブ・ドゥバールは言う。「好きな歌はない、過去は忘れたい、未来は知らない」
幸福に救われたらしいペールとソールヴェイの反対側に、救われることのない、救われるための手がかりすら持ちあわせていない現代の移民たち難民の姿が浮かび上がる。そして舞台は突如として暗転し、わたしたちは暗闇のなかに突き落とされる。それは恐ろしい瞬間だ。しかしこの深淵の恐ろしさこそ、『ペール・ギュントたち』をとおしてタジュディンたちが探求しようとした現代の問題だったのだと思う。「なぜわたしが不幸せなのかわかるか?」という叫びにどう応えるのか。答えは与えられていない。しかし、わたしたちはそのような叫びをたしかに聞き取った。問いは投げられた。この答えなき問いに応答することを、『ペール・ギュントたち』はわたしたちに求めている。