『みつばち共和国』―再認識させられる人間社会―
With コロナの世の中で創意によって克服し開場を果たした「みつばち共和国」が SPACによって行われた。セリーヌ・シェフェールの演出は無駄が一切なく表現の数々は見るものの想像力を掻き立て、ミツバチの生活を通してその絶滅の危機を訴える。静岡のうつくしい森の中にある劇場は気持ちを落ち着かせ、客席から見ることのできる美しい舞台装置と映像、自然の音によってメーテルリンクの物語の世界に没頭させる。寓話的でその真意を探求させられる作品であった。
巣箱保護員がミツバチの生態を説明し、働きバチが女王バチを育てそしてその女王バチがライバルとなる蜂を倒して蜂の国をすべる。そして、大空に羽ばたいてオスバチとの間に子供をもうける。産まれた蜂たちは蜜を集め、冬を越える。そこでは、働かないオスバチたちは穀潰しとされ殺されてしまい、貴重な蜜は確保される。最後に多くのミツバチが絶滅に瀕していることを説明し幕が下りる。
女王バチが誕生する場面から終演まで舞台上には幕が張られた衝立が登場する。その衝立は見る者に後ろの俳優の動きがわずかに分かるようになっている。女王バチの誕生シーンでは、薄明かりの中衝立の奥で行われることによって見る者の脳内で見えない狭間を補完させその神秘性を格段に増すことに成功している。映像と、舞台との融合もまた見る者に新しい感覚を与える。蜂の巣に投影されたたくさんの蜂が飛び立つシーンや、衝立に投影されたミツバチの卵とその幼虫は、観客の視線を奪う。また、衝立に投影された幼虫がその衝立を破り産まれ出るシーンでは、平面的世界から立体的な現実の世界への橋渡しを行っている。
俳優の演技も見逃してはならない。日本の伝統芸能が下半身を重要視するようにSPACの俳優陣の足さばきは安定性と軽やかさを両立する。ミツバチらしさを求め抽象化された動作はミツバチを演じる人間からその存在がミツバチその物であるという感覚まで連れていく。
俳優のつけるマスクはコロナに対応するためだろうか。しかし、見る者にとってそのマスクは感染症拡大防止の目的以上に役の性格付けに役立っていた。巣箱保護員はそのカッコウからまったく違和感がなく、女王バチは口元を隠すことでライバルの蜂を蹴落とす不気味さを感じさせる。マスクをつけないといけないという制約のなかで、むしろ開かれた可能性があることを示した。
物語最後、ミツバチが絶滅に瀕していることが文字によって示される。ここまでの想像性を掻き立てる表現から打って変わって直接訴えてくるこの演出には当初当惑した。具体的で強烈な表現によって物語に枠組みを作ってしまい解釈の可能性を狭めているように感じたからだ。
だが、このような表現を行うにはそれなりに訳があるはずである。ミツバチの世界を克明に描くことは、ミツバチに対するディティールを再確認することにつながる。現代人は、あまたの生き物を“虫”や“動物”のように捨象しくくることで、その物が持つ個性や人間との関係性を完全に人々から忘却させた。ミツバチもまた、“虫”とくくられ人間との安定的な関係性が断絶し今では絶滅に瀕していると考えることも出来る。この物語はミツバチの個性と人間との関わりを今一度とらえ直させることを可能にする。劇中に登場する、巣箱保護員は観客でもある現代人の世界とミツバチとの世界をつなぐ役割を果たし、観客に客観的に観測する機会を与える。この客観性によって、ミツバチのディティールを我々に再認識させ、無意識的に絶滅に追いやる行為を減らすことにつながることを目指しているのかもしれない。
物語の中でとらえることができることに、虫社会と人間社会の対比がある。この物語では、ミツバチが越冬する際に食料を食べるだけのオスバチを殺すシーンが描かれる。ミツバチは非常に合理的であり全体のために個体を犠牲にすることはいとわない。このことを、この作品では巣箱に精神のようなものがあるとして表現している。一方、人間社会では個人を保護するために全体で負担し分け合おうとする。人間社会には巣箱の精神のような全体に決定を下す存在があるのだろうか。それは、西洋的な神か、道徳であろうか。いや、人間社会全体に影響を与えるものはないのではないか、だからこそ個人がどうあるべきか我々は一人一人考える必要があるかもしれない。さらに、ミツバチの演出においてはムーバーとスピーカーとが分かれているのに対し、養蜂家は直接声を出している。ここから、ミツバチが個性を重視するよりも人形のように沢山同じものがいる均一性を持っていることを思わせ、人間はオリジナルの言葉と身体をもつ独立した存在として描かれている。人間の個人が持つ命の重みは、すべての虫社会の個の考え方とは大きく異なり、合理性ではないところに価値があることを再認識することができる。日本でも合理的ではないという理由で障がいを持つ人を殺害する痛ましい事件が発生し大きく非難が寄せられた。今この再認識は必要とされているかもしれない。