コロナ禍時代の舞台の可能性と不可能性
コロナ禍時代において演劇はもはや純演劇的であることを許されていないらしい。俳優はマスクを身に着けなければならないし、演出はソーシャル・ディスタンシングを内在化しなければならない。感染防止策という演劇外のものを舞台に登場させる必然性を捏造しなければならない。
再演となる『妖怪の国の与太郎』は、このような疫学的要請にコミカルな回答を提示していた。マスクが妖怪のコスチュームに化ける。スプレーによるアルコール消毒が喜劇的な身振りとして繰り返される。SPAC芸術総監督の宮城聰の代名詞ともいうべきムーバー/スピーカー制――言葉と身体の自然なつながりの意図的な分断――へのオマージュのような演出は、2019年の初演では借り物めいたところもあったが、舞台下手にしつらえられた音楽隊とアテレコのためのスペースと、舞台中央に作られたやや小ぶりの演技スペースとの切り離しは、舞台上で縦横無尽に動いたり語ったりすることがはばかられるいま、まさに時宜を得たものであるように見えた。
他人のアテレコする言葉に応えることの「不自然さ」が、強いられた不自由ではなく、選び取られた自由に転化する。ジャン・ランベール=ヴィルドとロレンゾ・マラゲラが演出を担当し、出演者のみならず翻訳者の平野暁人までもがドラマトゥルクとして参加した『妖怪の国の与太郎』は、コロナ禍時代の範例的な演劇作品であるように見えた。
あくまで、表層的には。
YouTubeでのライブ配信動画は、開始時間まで、天井にはりわたされた紐からぶら下がる提灯の幻想的なほの暗い明るさにつつまれる舞台を映し出していた。「ミーンミーン」とかすかに響くセミの声。なにとはなしに耳を傾け、ぼんやりと照らし出される舞台をそれとなく眺めているうちに、視聴者は、主人公の与太郎と同じように、この世とあの世のあわいに迷いこんでいく。死んだ与太郎が失くした魂を探す旅に引きこまれていく。
まったくばかばかしいことに、与太郎はセミを飲み込んだせいで命を落としているのだが、腹の中で鳴き続けるセミのために、いつまでも空腹に苦しめられている。与太郎の案内人である死神エルメスもまた、退屈に悩まされている。ふたりに通底するのは、癒されることのない渇きであり、充たされることのない欲望だ。しかし、劇全体を統合できたかもしれないこの「欠如」のモチーフの展開は不充分であり、散発的に回帰するディテールにとどまっていた。アテレコ役と、与太郎の救助者である犬と、与太郎の旅の最終目的地である閻魔大王の三役がひとりの俳優によって兼任されていたことの劇的意義が掘り下げられていなかったのも、作劇上の弱さの一例である。前口上にあるように、本作は魂探しの物語であり、その終着点は閻魔大王に魂を届けることだが、この既定路線の縦軸は、奇想天外な妖怪たちという横軸に圧倒され、サブプロットの存在感がメインプロットの地位を脅かす。
歌あり踊りあり、パーティーをしたり相撲をしたりと、目まぐるしくシーンが転換していくなかで、俳優はさまざまな妖怪に早変わりする。そこには、超絶技巧曲を軽々と弾きこなす凄腕の奏者の演奏だけがもつ有無をいわせぬ説得力、圧倒的な生理的快感があった。しかし、場面が変わると舞台上のキャラクターたちも入れ替えになるために、特定の妖怪たちと与太郎の関係が深まっていくことはないし、だからこそ、匿名にとどまる妖怪たちの個人技は、舞台上のキャラクターという仮想と、俳優の素の個性とのあいだを曖昧に揺れ動いていた。固有名を持つエルメスはその意味で例外的存在だが、彼と与太郎の関係にしても、すれちがう追いかけっこのようなものだ。だからこそ、ボードレールやダンテを引用して自らの教養を鼻にかけるエルメスの道化師性が際立ち、諧謔味が生まれていたとも言えるが、このすれちがいそれ自体が主題化されることはなかったようである。まるで場面のほうが向こうからひとりでにやってきて、勝手に通り過ぎていくかのように、『妖怪の国の与太郎』の物語は構造的にひたすら横滑りしていく。
蛙になったり、相撲をとったり、竜宮城のようなところでもてなされたりして、与太郎が最後にたどりついた暗闇のなか、ろうそくの光で、水色のストライプのパジャマの与太郎と緋色の長いローブの閻魔大王の顔が浮かび上がる。ふたりは舞台奥にゆっくりと後退していく。「のんきに暮らせればそれでいい」と与太郎は言う。それは、充たされることのない焦燥感に駆られる与太郎が、あの世でばかばかしく楽しく生きる妖怪たちと出会い交流するなかで学びとったのかもしれないが、それに応えるように閻魔大王は言う。「あたえてはうしなってなおいぶきかな」
チンドン屋のように賑やかな音楽にのせて歌われた「あのよもこのよもこころはおなじ」「しんだあとにもあしたはあった」の後奏の合唱には、命が失われていく厳しい現実世界を見据えたうえでの「あえて」の希望が込められていたのかもしれない。しかし、『妖怪の国の与太郎』のようにいくらでも拡張可能な可塑的な作品には、変化する世界に柔軟に応えていくポテンシャルが備わっているのだからこそ、単なる反実仮想的な言明でも単なる願望充足の表明でもない、しなやかにしたたかな希望をこそ上演すべきではなかっただろうか。
何気ない日常のかけがえのなさ、そのような日常の永遠の回帰が、あまりにもあっけらかんと、罪深いほど無邪気に称揚されているように聞こえたのは、ライブ中継映像での鑑賞だったからかもしれない。拍手によって「終わり」を俳優や劇場と共創造できないライブ映像中継を見る視聴者は、一方的に終わりを宣告される傍観者にすぎないし、ある意味ではこの舞台の俳優たちにすらそのようなところがあった。幕切れを決めるのは、映像である。不器用に舞台挨拶をすませた俳優たちが退場すると、後奏のなか、スタッフロールが流れる。TVや映画でおなじみの形式だ。しかし、舞台が終わり拍手が起こるまでの沈黙の間、観客たちが劇の余韻から覚めかかりながらまだ覚め切ってはいない夢うつつのまどろみの時、舞台が観客のなかに呼び覚ましたものが劇場を充たしてくあの予想のおよばない一回的な時間にこそ、劇場の魔術的な力があるとしたら、映像配信における舞台の終わらせ方は、TVや映画とは本質的に異なるものでなければならないのかもしれない。幻想的な導入部に比べると、終結部はあまりに直截に祝祭的すぎた。演出としても、映像としても。
『妖怪の国の与太郎』は、コロナ禍時代の舞台の可能性と不可能性の両方を、浮き彫りにさせていた。