宮城聰演出『ハムレット』における「主権者の非現前性」について
宮城聰演出『ハムレット』の最終盤の展開は、とても奇妙である(※) 。それもそうだろう。なぜなら、それまでデンマークが舞台であったはずが、ハムレットとレアティーズの剣闘における王侯貴族たちの死とともに突如ジャズと明らかに玉音放送を意識したラジオが流れだし、空からはチョコレート入りの箱が降り、舞台にはそれまでのアジア風の衣装とは打って変わってもんぺに身を包んだ少女たちが現れるのだから。この唐突とも言える展開によって、観客は『ハムレット』の権力移譲のストーリーを、戦後日本の天皇主権からGHQによる統治へという権力移譲を必然、重ね合わせることになる。本稿では、「主権者の非現前性」という視角から、宮城の『ハムレット』におけるこの唐突な演出の意味合いと、いかに宮城が『ハムレット』から「日本」と「日本人」を描こうとしているかということについて探っていきたい。
まず、『ハムレット』における「主権者」とは誰か。それはハムレットの父である先王と、王侯貴族たちの死後王位に就くフォーティンブラスである。先王を殺害し実権を握ったクローディアスは主権者ではないのか。理由は後述するが、主権者というよりはむしろ、先王の呪縛の中にある被支配者である。次に、日本における「主権者」とは誰か。戦前は天皇、戦後すぐはGHQ、つまりアメリカである。宮城は、この二者間の権力移譲を、『ハムレット』に重ね合わせている。そして、宮城演出の『ハムレット』における主権者と、日本の主権者の共通点は何か。それは、「非現前性」である。
宮城は、本来俳優が演じるはずの先王の役回りをハムレットの独白に差し替え、また戯曲のカットに合わせフォーティンブラスも一切登場させぬまま(勿論劇中で言及はされるが)『ハムレット』を終幕させてしまうのである。この演出こそ、宮城演出『ハムレット』の真髄であろう。日本における主権者であった天皇にしろ、GHQの背後にあるアメリカにしろ、それらは国民の前に「現前」することはほとんどなかった。天皇は行啓などの形で姿を現すことはあったものの、多くの国民にとっては文字通り「雲の上の人」であったはずである。アメリカも同様で、日本を統治する「国家」としてのアメリカは、遠い異国なのであって、非常に概念的であり、日本国民がその存在を手に取るように確認できるものではなかった。つまり、日本における主権者たちは、いずれも「非現前性」を有していた。
この構造を、宮城の演出はなぞっている。先王とフォーティンブラスをあえて具体的な形をとっては登場させないことによって、『ハムレット』を戦前・戦後の日本人の物語に仕立て上げ、かつハムレットを「悩めるインテリ」から「日本人そのもの」に書き換えているのである。したがって、最終盤のあの唐突な演出は、それ自体により『ハムレット』を日本人の物語にしたというよりは、「最初からこの物語は、日本人のあり方を問うていたのだ」ということを、観客に鮮烈に突きつける作用を持っていると解するべきなのである。
また、この「主権者の非現前性」は、必ずしもその主権者が外在的な存在であるということを意味しない、ということにも、宮城演出は言及しているように思われる。
ここで着目すべきなのは、ハムレットが先王の亡霊の台詞を自ら代弁している点である。ここでハムレットは死した主権者を内在化し、また亡霊の言葉により復讐に突き動かされるように、またその主権者に束縛=支配される。先王を殺害することによって王位を勝ち取ったクローディアスにしても、その悪事に対する罪責の念に苛まれ続ける。このクローディアスというキャラクターから思い出すのは、フロイトが紹介した、原始群族における主権者としての父の殺害と、その父の肉を食らうことによる父との同一化、そして殺害から生じる「後悔」と「罪責意識」、それが引き起こす父への(生前父によって妨げられていたことを、父を殺した者たち自らが禁止するという形での)「事後的服従」というエピソードである。クローディアスは兄を殺すという兄の超克それ自体により、兄に服従しているのである。したがって、クローディアスは「主権者」というよりむしろ「被支配者」なのである。そして、主権者というのはそもそも、その現前=生よりも、死=非現前によってその権力を発揮するものなのである。日本の天皇にしてもそうである。天皇は「現人神」として日本国民にとって心理的な存在であり続けたし、またその死(非現前的存在の再非現前化)=「人間宣言」は、今もなお日本人を束縛し続けている。宮城は、こうした「非現前的な主権者に束縛される日本人」の姿を、鋭く描出しようとしているのである。
宮城演出『ハムレット』は、最終盤の演出のみならず、先王の亡霊とフォーティンブラスをあえて(その登場人物だけを演じる)俳優を割り当てないという演出によって、「主権者の非現前性」を露わにし、その物語を「西洋世界の悲劇」から「日本人のあり方を問うもの」へと巧みに変容させているのである。
※宮城自身も、演出ノート「That is the question」の中で「今回の『ハムレット』の幕切れは、奇妙な演出だなあと感じられるかもしれません。」と述べている。