生者の葬式としてのアンティゴネ
亡くなった家族と一度も対面することができなかった―。いま、日本中にあふれる現実だ。新型コロナウイルス感染症は、予防を名目に弔いの場を奪い、感染した死者に対して不平等を強いる。遺族には死の事実が伝えられるのみで、突然目の前に骨だけが帰ってくるという現状は「身体なき死」とも呼べる事態に直面している。遠く2500年前、反逆を理由に弔うことを禁止された兄ポリュネイケスの魂を、国王クレオンの命令に背いてでも弔った主人公アンティゴネ。その物語を通して「死ねばみな仏」という死生観を描いた宮城聰の演出は、現実問題として社会が平等を担保できなくなっている今、何ができるのか。その答えを「身体なき死の葬式」として示し、世界に鎮魂を届けた。
宮城の演出は、人物たちの身体の所在を徹底して抽象化する。『アンティゴネ』の劇中で、王は兄の遺体を、埋葬せず野鳥に食わせるよう命じる。この身体なき死を前にしたアンティゴネは、枯山水のような舞台全面に張られた水を通して弔いを行う。舞台中央の十字架にも見える石の上に立ち、手で水をすくって水面に注ぎ入れる。目の前にない身体の代わりに、水を媒介して魂のみが触れ合い、広がり満ちていく。儀式としての弔いは果たされ、名前を持っていた死者も、音楽を奏でたり水面をただよったりするコロスの死者の一人として導かれる。今作は動作と語りを別の人物が演じる「二人一役」にとどまらず、壁に投影した巨大な影を用いて「三位一体」にまで高めた。影はときに主従が逆転して文楽の人形遣いのような振る舞いも見せながら、個別の身体的特徴を輪郭にまで還元していく。人間の構成要素を分解し、相対化した身体の重要度を下げることで、身体の所在を考慮しなくとも、魂の所在だけで死者を送り出す可能性を現前させた。
だが、その達観とも思える感覚を、現実の私たちは受け入れられるのだろうか。ギリシャ悲劇という神の視点の物語を通して見たときには可能でも、身体に規定された凡百な私たちは、動かない身体を見て初めて死の実感を迎えられるものだ。能楽師の安田登は『平家物語』を念頭に「死を克明に語ることは、最も大きな死者への鎮魂」であると話した。現代の葬儀を例にとれば、克明に語る機会に当てはまるのは通夜だろう。私たちは一連の過程で死者の記憶が心の中に残り、ようやく死を受け入れることができる。葬儀は死者を弔う以上に生者のためでもあり、魂だけで弔いを終えることは、生者の側にこそのしかかる問題と言える。コロナで家族を亡くした人々の話には「まだなんとなく泣けない」「親戚や近所の人にもまだ言っていない」といった言葉が出てくる。震災で津波に飲まれて行方不明になった人々について、家族が死を認められないことなどとも同根だろう。
宮城の重点は、この生者に対する弔いにこそある。徹底した俳優の身体の抽象化の先にあるのは、観客の視点のパーソナライズだ。今作は本編の前に、俳優たちが5分ほどで『アンティゴネ』の物語を語るシーンから始まる。集まった背景も作品の理解度も様々な観客の立ち位置を揃え、観劇中に物語の筋を追う行為から解放することで、儀式としての本編へと没入を誘う。日常から切り離された静謐な空気と打楽器の演奏が通底する中、すべての登場人物の抽象化された身体が等価に弔われていくさまを目にするにつれ、劇中の人物を表していた記号が観客それぞれの「誰か」へと具体化されていく。身体なき死を果たした人物との再会を紡ぎ、私たち自身のやりきれない感情、つまり弔えぬことそのものを弔ってみせる。
本作が上演された2021年は、天の視点から諸行無常の平家物語を見つめ、レクイエムとして上演した野村萬斎演出の舞台『子午線の祀り』が上演された年でもある。『アンティゴネ』とは初演が2017年であることまで同じで、鎮魂を必要とする時代の要請に響きあっているかのようだ。それほどに上演が時機に即して見えるにもかかわらず、宮城の演出のベースは、コロナ禍の前のアヴィニョン公演から一貫して変わっていない。その事実は、『アンティゴネ』の戯曲が備えた普遍性にとどまらず、宮城の演出そのものにも、時代の変化を問わない普遍性があることを証明した。
最後の場面は、全俳優が輪になって盆踊りを踊る。舞台上には駿府城公園の綿毛が光に照らされて舞っていた。観客の思いが供養されるかのような幻想的な情景の中、盆踊りを終えて舞台奥に消えていく俳優たちを、観客は拍手で送った。拍手は対象に向けた賛辞を送る手段であると同時に、演劇においては舞台の終わりを知らせ、俳優の「役」に死を告げる弾丸を放つ暴力性も秘めている。この日の拍手は、死者としての俳優と「私たちの中の誰か」の安らかな死を願う送り火であるとともに、これからも生き続ける私たち自身への賛美と、悔恨を昇華する祈りを兼ね備えた優しい鎮魂として響いていた。まさに、生者と死者を結ぶ葬式であったのだ。