劇評講座

2021年10月11日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■入選■【おちょこの傘持つメリー・ポピンズ】森川泰彦さん

カテゴリー: 2021

おちょこの傘持つ芸術史的記憶

 
 この戯曲は、映画『メリー・ポピンズ』を出発点とする大気をめぐる主題群と、創作当時の社会的事件、そしてそこから連想された芸術史的記憶という三つの要素からなっている。
 『メリー・ポピンズ』に由来するのは、傘を持って飛来する若く美しい女性のイメージであり、精神分析的に言えば、幼児的万能への退行を可能にするファリックマザー(男根を持つ理想の母親)との邂逅である。開いた傘は勃起した男根、(象徴界への参入が不可能にした)現実界との接触を可能にする母のファルスの隠喩なのだ。おちょこは飛び上がる度にあえなく落下するが、かかるファルスが実在するかのごとき錯覚は、つかの間の享楽をもたらすのである。「おちょこ口」とは傘(男根)が使用不能(性的不能)になった状態であり、つまりはその直前の射精を示唆している。
 この傘と並べられるのは、より実現可能な快楽としての煙草だ。メリーの傘が気体である風に接しているように、煙草は気体である煙と接したその換喩物である。それは中毒的快楽をもたらす嗜好物だが、身体から突き出した棒状物であることと相まって、これまた男根を象徴する。煙草が男性を感じさせると言うカナが、それを用いた妄想による自慰を示唆し、またおちょこの誘惑をヒステリー的に拒絶してその「男性」象徴性を強調するのもそのためだ。この2つの特権的物体は、劇のいたる所に登場してその象徴的連関を張り巡らせてゆくことになる。
 こうした主題的連関が指し示す原始の母親との性交のイメージに、具体的な物語を与える素材となったのが、森進一にまつわるスキャンダルである。そして演劇史を中心とする芸術史的記憶、中でも『ハムレット』『ドン・キホーテ』『欲望という名の電車』がその中に再編されてゆく。
 まずハムレットに重なるのは、おっぱいを「はらすべきかはらさざるべきか」(子供を産むべきか産まざるべきか)と自問したカナだが、堕胎を拒否して結婚を認めさせるべく世間へと突き進んだ彼女はむしろドン・キホーテに近い。そしてバロック的精神の権化である唐の作品において人格は、一つの肉体に複在するだけではなく、肉体をまたいで存在しもする。同時に檜垣もまた、ハムレット兼ドン・キホーテなのである(兼ロシナンテ)。この意味連関において、おちょこはハムレットの分身ホレイショーであり、カナはガートルードであり、彼女と結ばれる森進一は(対極のトラック野郎と合わせて)クローディアスに相当し、その結婚を認めず抹殺を図る父なる世間こそが、亡霊なのだ。ハムレット檜垣はカナへの森進一の母の手紙を強引に手に入れるものの破棄せず、渡すべきか渡さざるべきか(世間に従うべきか否か)と苦悶し、その決断を引き延ばす。そして手紙を渡す(欲望の対象である母カナとライバルたる叔父森進一との結婚の事実を受け入れる)決断をするが、ドン・キホーテと同様、その行為は徒労に終わる。
 そんな結果をもたらしたのは、自殺した森の母の沈黙であり、彼女は原始の母、殊に象徴界に押しつぶされて不活性化した現実的なものを体現している。それに対しカナは、つかの間であれ活性化された現実的なもの、欲望の対象たる母の体現であると同時に、父を否認し母を求める欲望の主体である。おちょこを優しく「男にする」一方、目をつぶすことで子(トラック野郎)を去勢し、あるいは槍(ファルス)を持ち、子(檜垣)を家畜化し、父(釜辺)に突進して辱める彼女は、残酷な母が家父長の処罰権(去勢の脅し)を奪取することで父を否認するマゾヒズム的時空を出現せしめるのだ。マゾヒズムが要請する原始の母親は、そのマゾッホ論でドゥルーズが析出したような「冷酷な母親」にとどまらない。象徴的秩序に甘んじない女性は全てその資格を持つのであり、墓を暴くような「狂気の母親」であることはそれを強化する。
 欲望に駆られて空を飛ぶ傘(母のファルス)の連想は、死の世界へ旅立つ銀河鉄道(母のヴァギナでもある)を経て欲望と名付けられた電車に帰着する。想像的現実的なものを体現するカナが収容され彼女を欲望する檜垣が殺されて(共に去勢されて)物語は終わるかに見えるが(象徴界からの排除と抑圧)、大半の唐劇と同様、幕切れは「不可能を可能にする」想像的なものを経た現実的なものの全面的な顕現を予感させる。こうしたエディプス・コンプレックスの実現と抑圧をめぐる古典的な諸契機が、この劇の骨格をなしているのである。
 今回の公演はかかる戯曲をどのように上演したか。その特徴を3点に絞って指摘しておこう。
 第一は、スペクタクルを作る必要もないのに屋外の大劇場を選択したことだ。この芝居において傘を運ぶ風は決定的に重要であり、また傘と並んで偏在する煙草の煙も同様である。特に風はしかるべき時に吹かねばならず、しかもその頻度は少ない。決定的瞬間のためには、上演の大部分においてむしろ無風が望ましいのに、そのせいで制御は不能になるのだ。またこの劇において煙草が頻出するのは、その煙が通常は見えない無風を視覚化するものだからでもあろう。今回は換気の必要があったし、マスクのために着火できなかったから正当化されるものの、本来は屋内の小劇場での長期公演が望ましかったはずだ。
 第二は、回り舞台の上に写実的な家屋を置いたその美術である。紅テント公演のラストでは、舞台の背面が開いてそれまでの劇世界を支えていた物質的空間が崩壊するのが通例だが、それは、さらなる幻想世界を開示するために行われる。回り舞台はその代替として用いられたわけだが、それはかかる夢の時空を召喚しえたのか。まずそれは、物語の開始前にわずかであれ動くことでその存在を見せつけており、突然回り出すことが与えてくれたはずの意外性をわざわざ捨てていた。またそれを見た観客が想起したのは、映画『メリー・ポピンズ』の回転木馬のシーンではなかったか。乗客がつかまる棒(ファルス)に貫かれたその木馬は、ファリックマザーがさす傘の変形物であり、その力が幼い姉弟らに浮遊の自由を貸し与える。当然これらは、ラストで原始の母の下へと飛翔する二人の子ら(檜垣とおちょこ)が手にする傘とも重なり合うが(また他にもそうした走馬灯が回るべき瞬間はあったはずだが)、何の変哲もない家屋が回るだけの貧しい光景は、映画のような幸福を感じさせてくれはしない。
 第三は、これが最も重要だが、戯曲における芸術史的記憶の利用を発展させた演出史的記憶の導入である。今回の上演において保健所の男役の女性はその登場における音楽や身振りからして鈴木忠志演劇のパロディであり、さらに保健所長を妖艶な衣装をまとった女性が演じてそのマゾヒズム的空間の戯画を作り上げていた。この上演においてブランチ=カナ(狂気の母親)の連行は、父なるものによる母なるものの抑圧に止まらない。それを指揮するのが偽父(冷酷妖艶な母親)であることによって「世界は精神病院である」という鈴木のスローガンを行為遂行的なものとするのだ。そしてこうした倒錯は、元々の唐のテクストに書き込まれていたのであり(彼女らが被る表紙の顔の森進一は亡霊ではなく、侵犯者クローディアスに当たる)、この演出はその真っ当な解釈の延長なのである。