「ウィズコロナ様式の可能性と野外劇」
舞台のうえには傘屋の仕事場とおぼしきものがポツンと立っている。色とりどりの傘が並んでいる。開いたものが手前に、閉じたものが下手側の天井からぶら下がっている。上手側の一段高くなったところの机には傘職人のおちょこがいる。開いた傘の後ろで居候らしき檜垣が寝転んでいる。野外劇場である有度の舞台裏にそびえる大きな木のせいで、昭和の匂いをただよわせる舞台装置はやけに小さく、いかにも作り物めいて見えるが、作り物でしかない歴史的時間と、それにシンクロしない自然の風景という不釣り合いな場のなか、事実とゴシップ、虚構と妄想が混ざり合う。そこからなにかとても奇妙で異様な舞台的真実が迫り出してくる。
2時間にわたって雨は止むことがなかった。それこそ非日常的体験である野外劇の醍醐味であった。雨という自然の圧倒的な力にたいしてわたしたちがいかに無力であるかを感じさせられた。しかし、俳優たちの声にとってはきわめて厳しい状況でもあった。セリフを聞き取るのが難しい場面もあった。英語字幕を横目に収めながら、どうにか芝居の筋を追いかけるしかなかった部分もあった。しかし、雨だからこそ、逆に舞台に集中できたような気もしている。劇が進むほどに声が響いてきた。舞台の迫力がいつにもまして伝わってきた。
狂気と正気をシリアスかつコミカルに往還する唐十郎の戯曲は、荒唐無稽な寄せ集めになってしまってもおかしくないところだというのに、そこに圧倒的なまでの実在感と迫真性が宿ってしまうのは、舞台における言葉や演技がそもそも論理的な因果律とはべつの必然性によって――それを「情念」と呼んでみたい気に駆られる――立ち上げられているからだろう。キャラクターたちは、語るほどに、動くほどに、ますます情動的となって――しかしそれを「動物的」や「本能的」と呼ぶのはなにか的外れな気もする――強度と密度を増加させ、雑多でありながら純粋でもある存在に生成変化していく。
対話は急展開する。トーンが一瞬のうちに変わる。話題は何気なく口にされた単語から突如として横滑りし、横滑りした先で増幅し、増幅したものが再び元の話に還流する。アナーキックな言葉の増殖運動は、まるで物語の核心に触れることを怖れる生理的な防衛反応であるかのようだ。核心にあるもの、それは、「恋」や「愛」というありきたりの言葉では名指すことができない、圧倒的に不合理でありながらどうしようもなく絶対的な衝動、存在の中心を占めながら、全体を破滅的に(しかしそこに歓びがないわけではないかたちで)侵食していくような力だ。言葉の字面通りの意味には収まりきらないもの、話の調子、体の振舞にあふれ出していくものである。だから、唐十郎の戯曲を演じる俳優たちは、言葉を言葉として発話しつつ、言葉の意味とかならずしも呼応するわけではないべつの意味をそこに上乗せしていくことを強いられる。
宮城聰の「言動分離」(二人一役)スタイルは、アングラ演劇の場合、一人二役――ひとりの俳優が自らの言葉と身体をそれぞれ相対的に自律させる――へとゆるやかな変化を見せるが、それが今回は、「ウィズコロナ様式」へと、宮城が「新古典主義様式」と呼ぶものへと昇華されていた。あたかもラシーヌを演じるかのように、唐十郎が演じられていた。一昨年に再演された唐十郎の『ふたりの女』でもすでに実践されていたことではあるけれども、対話を繰り広げる俳優たちが、正面を向いたまま、向かい合うことなく言葉を投げかけていた。
二次元的な活人画スタイルが押し進められた結果、檜垣がカナの首を絞めるシーンでは、カナが自ら首を締め、その隣で檜垣が両手を突き出し虚空を握りしめることになる。きわめて奇妙な絵図であった。檜垣はカナの首を絞めていると口にするが、実際には締めてはいない。カナは檜垣の手にやさしさを感じると漏らすが、彼女の首にかかっているのは自分の手である。しかし、言葉と行為の亀裂が痛々しいほどに可視化されるからこそ、否認しないわけにはいかない本心の欲望と肯定しなければならない抑圧された現実との亀裂が、精神分析的なドラマとして表面化していた。濃厚接触を避けるという非演劇的な要請が、唐十郎の戯曲の本質を抉り出すためのメソッドに昇華されていた。
この新古典主義様式には微妙に不徹底なところもあった。ところどころで俳優が向き合ってしまっていた。それは、演者の生理的な必要性の不可避的な帰結であったのだとは思う。共演者の身体の存在感を隣に感じながら、自らの存在感をそれに並べること、しかし、それらのエネルギーを相手に直接にぶつけることが原理的に禁じられているため、平行線なすれ違いを耐え続けなければならないという状況――それは、あまりにも俳優の生理に反するものであったのだろう。
そのような踏み外しはあったものの、愚かな純真さと怖ろしいしたたかさを瞬時に交代させ、生身の女であるとともに神話的な女の両方を体現していたカナ(たきいみき)、諭すような言葉と、それを裏切るような身体の情動を舞台後半のダイアログのなかで解放していった檜垣(奥野晃士)は、見事な演技であった。滑稽な言葉を語りながら、身体のほうではつねに哀しみと健気さを体現していたおちょこ(泉陽二)は、ふたりに比べるとすこし線が細く、また、狂言回し的なおちょこの役回り上、実際以上に上滑りしてしまっていた部分もあったけれども、彼の体当たりな演技があればこそ、本劇の基調をなす現実から仮想への飛翔、リアルのすぐそばに開けている夢の空間である深淵や虚空へのダイブが、劇後半においてあれほどの存在感を持ちえたのである。
『おちょこ傘持つメリー・ポピンズ』は混沌のうちに終わりかける。カナの連行係として登場した保健所職員たちは、京劇役者のような仮面と踊りで立ち回りを演じる、俳優たちが森進一の写真を仮面のように顔にかざすと、果たしてそれが現実のシーンなのか、誰かの空想の上映なのかが、わからなくなってくる。森のスキャンダルの幕切れをなすのは、銃で撃たれて息絶える檜垣である。狂乱のなか、カナは檻に入れられ、犬のように引かれていく。
舞台は暗転し、すっかり暗くなった野外舞台のうえで、傘屋の仕事場のセットがゆっくりと回転し始める。銀色の壁や屋根が、ライトに照らし出されて、妖しく光る。雨が光を乱反射させ、金色に輝く。先ほどの混沌を癒すかのような静謐さである。
セットがふたたび正面を向くと、おちょこがひとりたたずんでいる。畳のうえには、檜垣のジャケットが広げられている。おちょこは檜垣の死を悼むかのように、檜垣がカナから贈られながらあえて吸うことがなかったハイライトに火をつけ、それを墓前に供えるかのように、ここにはもういない檜垣の口にもっていく。おちょこが檜垣のジャケットを右手にかかえ、まるで彼がまだそこにいるかのように、ふたり分のからだを、カナのために修理した傘で浮かびあがらせようとする。おちょこは「飛んだ」と言う。もちろん彼らは飛んでなどいない。しかし、同じ女に惹かれた者同士の連帯と言うにはあまりにも甘美な、ホモソーシャルというよりはホモエロティックな抒情を発散させながらおちょこが銀色の傘をかかげ、舞台が再び暗くなっていくとき、彼らはたしかに飛んでいた。