「戦略的ハッピーエンドの演出的アンハッピーエンド」
4月末の18時は夜というにはまだ明るい。中途半端な狭間の時間、ただっぴろい灰色の広場の中央奥に、黄色のショベルカーが異様に鎮座している。これから2時間のあいだ束の間の舞台となるはずの広場を現実世界の歩道から隔てるのは、杭とロープだけだ。ぼろきれのような長いコートをまとった人々が、生気なく、ひとりまたひとりと、ロープの向こうからやってきては、寒そうに地べたに横たわっていく。虚構が現実に侵入してきたのか、それとも、別の現実がいまここにある現実に闖入してきたのかと、観客は自問せざるをえない。ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ』は、本来ならソロで歌われる「刃(ヤッパ)のマッキーのモリタート」を合唱させることによって、わたしたちの現実感覚を切り崩す群集劇として始まっていく。
ところどころで差しはさまれるソングやダンスはいかにもわざとらしいもので、故意の不自然さがあった。身体的接触を避けるためだろう、殴り合いはあくまでフリにすぎない。そこにドラムスの打撃音がかぶさると、コントめいた感じはさらに際立つ。歌が始まると、上手にそびえる大きなスクリーンに、作りこまれたチープな映像が再生される。セットや小道具は最小限で、シーンが変わるたびに黒子役のスタッフや俳優たちが慌ただしく場面転換を行う。舞台が虚構のものであることが、絶えず示唆される。
にもかかわらず、観客は、これがたんなる嘘であるとは言い切れない状況に追い込まれていく。くどいほどに繰り返される下ネタを笑い飛ばしたり、メロディアスなソングを音として愉しんだり、コミカルなダンスを無邪気に眺めているわけにはいかなくなる。目の前で生起していることを、現実から切り離して安全な距離を取ることができなくなる。
演出家コルセッティの批判性を範例的なかたちで体現していたのは、ソングのさいのスクリーンである。ブレヒト劇における歌は、内面告白やプロットの説明のためではなく、物語の進行を宙吊りにし、ストップした時間のなかで劇的世界の別の側面をクローズアップするために用いられる。コルセッティは、ヴァイルが作曲した耳なじみのよいメロディーにのせて歌われるがゆえに、ややもすると聞き逃してしまいそうになるブレヒトの歌詞の意味内容を映像として可視化することで、『三文オペラ』の背後にうごめく多様な暴力のかたちを、わたしたちに突きつける。わたしたちのすぐそばにありながら、わたしたちがあえて直視しようとはしない暴力の姿を、わたしたちに突きつける。
マックヒースが娼婦宿で歌うヒモ時代の回想歌では、DVの記録写真にほかならないアザだらけの3人の女たちの顔が大写しになる。顔の傷がメイクによる特殊効果にすぎないことを、わたしたちは知っている。にもかかわらず、そのように作られた虚構の暴力の痕跡は、依然としてわたしたちをたじろがせずにはおかない。コルセッティは、加工された作り物のイマージュを用いて、わたしたちに目を開いて社会の暗部を見つめるように迫る。しかし、あくまで、非強制的に(というのも、わたしたちはスクリーンから目を背けることもできるから)。
演出家は女同士の争いのプロットをカットし、アレンジを加えていた。オリジナルでは、マックヒースの正妻の座をめぐって、ピーチャムの娘ポリー、マックヒースの戦友にして警視総監であるブラウンの娘ルーシー、娼婦のジェニーが鞘当てを繰り返すが、『野外劇 三文オペラ』ではルーシーの存在が抹消され、ジェニーは3人の娼婦に分割されていた。時間の制約上、仕方のない変更だったのかもしれないが、ブレヒト=ヴァイルにおけるジェンダー間の権力関係は簡略化されてしまっていた。しかし、その一方で、ジェニーを3人の匿名的娼婦へと複数化することで、マックヒースの暴力の問題性を増幅するとともに、彼女たちを『マクベス』の魔女たちのような超常的存在に仕立て上げていたとも言える。
最後のどんでん返しに先立つ馬上の使者のシーン――アンハッピーエンドに終わったはずの劇をハッピーエンドに変えるデウス・エクス・マキナの登場――では、昭和の特撮アニメ的な、ゲームボーイやスーパーファミコンを思わせるようなチープなCGを活用することで、コルセッティは、皮肉と批判を軽やかに演出していた。スクリーンに映し出された駆ける馬のアニメーションの前に梯子を置き、映像に合わせて身体を前後に揺するというのは、原始的なまでに単純でありながら、ヴィジュアル的にはきわめて印象的で、権力のスペクタクル性とその安っぽさを、エキサイティングに描き出していた。カタルシスを感じさせながら、それが嘘であることをあからさまに宣告してもいた。しかし、劇の締めくりとして演出家が選んだのは、そうした疾走感のあるコミカルな批判性ではなく、重々しい悲劇的な嘆きのトーンではなかっただろうか。
「不正を追及するな」という痛烈な軽口ではなく、「嘆きが響いているよ」という痛切な言葉を、観客の良心に共鳴させるようにして舞台を終わらせることは、共感や同情を戦略的手段としかみなさないマックヒースやピーチャムに逆らうと同時に――なぜなら、コルセッティにとってのヒーローは、個人的な負い目と公的な職務のあいだで引き裂かれ、良心の呵責にさいなまされる警視総監ブラウンであったように思われるから――、彼らの精神に倣う抜け目ない戦略的演出だったのかもしれない。だとすると、『野外劇 三文オペラ』の真の功労者は、次第に暗転していく光によって、俳優たちを美しく闇に沈ませていった照明であったと言うべきだろうか。