劇評講座

2021年10月11日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■優秀■【アンティゴネ】植村朔也さん

カテゴリー: 2021

 現世的秩序を拒んで自らの死を差し出し、ついに叔父クレオンを破滅に至らしめるアンティゴネの行為は「権力が、返されるのを期待せずに与える行為に根づくのであれば(…)生命を一方的に与えるという、主人のもつ権力が廃棄されるのは、この生命が延期されざる死という形で主人に返される場合だけである」(『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳)というボードリヤールの言葉をなぞる、革命的なものであるように思われる。しかしその振る舞いもまた「神の法」に即したものであり、それが彼女の命運にもたらした帰結を思えばどこか全体主義的な薄ら寒さが漂う。再度ボードリヤールの言葉を引けば「すべての単一支配システムは、永続したいならば、二元支配による調節を行う必要がある」(同上)のであって、『アンティゴネ』とは、ピュシス(神の法)とノモス(人間の法)の対立において理解されるならば、感動的な拍子の裏で個人に自刃を促す全体主義の足取りを再生産する舞台に他ならない。「死ねばみな仏」なのである。さらに古代ギリシアの世界では、ボードリヤールが扱う現代の消費社会とは異なり、冥界が現世から隠蔽されることなく相互の交通が約束されており、ピュシスのシステムは此岸と彼岸の二元支配によって一層強固に安定する。もはや個人の死はシステムの瓦解を意味しない。
 この二進性の統治システムは舞台をも支配していた。人物はムーバーとスピーカーに分割して表象される。このムーバーたちは水を張った枯山水に散在する岩々を足場としてそこをほとんど離れないが、アンティゴネを中央に、そして上手にクレオン、下手にイスメネやハイモンを配する舞台の構成は、権力者/反逆者、善/悪といった二分法を明瞭な仕方で視覚化するものである。この振り分けは演出家の宮城が参考したというインドネシアの影絵人形芝居ワヤンのそれをなぞっている。ムーバーの挙動は背景に影として写し出されるのだが、その巨大なシミュラークルにおいてはまさに権力による個の抑圧の論理をなぞるようにして俳優の人体がシルエットへと捨象され、抽象され、類型化されている。
 ところで、ワヤンと異なり人形でなく実際の人間の身体が影を演じていることの意味は大きい。人形の場合素早く動かしたりこれを持ち上げたりすることでスピード感や飛翔を具現化し、シーンを活気づけることができるが、俳優の肉体は重力の拘束を免れることなく現実に接地している。なにより、ワヤンの場合スクリーンには人形を動かすための棒や糸が移りこんでしまうが、人体はあくまでそこにひとりで屹立してある。その影はあくまで具体的な人間の相貌の写しである。
 ワヤンの人形の影に人々は古来の神々や先祖の息づきを見出しただろう。影は悠久の歴史をすべての人間とともに歩んできた。『アンティゴネ』でスクリーンに大きく投射されたその影もまた国家的な権力と歴史の場に巻き込まれた古の物語を紡いでゆく。しかし日本語で読まれ、インドネシアの民族芸能に形を借り、日本的死生観に貫かれたその上演はいかなる特定の「ネーション」にも帰属することはない。言葉と動きとが分離されたその演技は特定の人格像に安定的に着地しない。フォーマリスティックな美学的強度を高めた人々の抽象的な現れはそれだけに一層観客の想像力を誘発し、どんな過去にも安住することのない舞台の現在を生きる。それを可能にしたのは上演がテキストの丁寧な研究に基礎を置きながら達成したそこからの飛距離である。
 ここで真に革命的なのはアンティゴネの厭世ではなく、愛に駆動されたイスメネとハイモンとの徹底的に見返りなき現世主義、現在主義である。権力は彼らに贈与されたものを贈り返すことができない。実際、今回の上演を真に感動的にしているのはアンティゴネの潔癖な早世よりもむしろ、その生を必死に繋ぎとめようとするイスメネの震えるしかし強い調子(進行上の必要に照らしても彼女の存在は上演に際して殊更に強調されたのだと思われる)、そしてアンティゴネの後を引き継ぎ父クレオンに立ち向かうハイモンの声の勇壮な響きだったのではないか。
 ラストシーンではすべての人物が水場に降り立ち、盆踊りを緩やかに舞い歩く。彼らは舞台上で大きく円を描き、それまで戦われてきた2つの世界観の対立を止揚する。影はもうない。それは「死ねばみな仏」という死後の世界の日本的で朗らかな表象であるが、しかしそれがわれわれの胸を打つのは、この舞いの根幹にある根源的な楽観、しんみりとした悔悟の念とは程遠い現世的な躍動がわれわれの身体のうちに記憶として息づき、彼らの「生」をただちに深く肯定するからである。このひとりひとりの力強い生への意志を欠いてしまえば、物語は悲壮なペシミズムとナルシシズムに堕してしまう。アンティゴネの悲壮な物語を永遠化するのは、彼女のまわりでたしかに愛と喜びに充ちて世界を謳歌し、それだけに彼女の死を返還不能の喪失として経験するひとびとたちなのである。