劇評講座

2021年10月11日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■最優秀■【アンティゴネ】小木郁夫さん

カテゴリー: 2021

「アンティゴネは、なぜ<過剰に>天を仰ぎ見たのか?」

 古代ギリシャ三大悲劇詩人に数えられるソポクレスは、作劇上の「数々の革新を行った」とされる。一例としては、従来は詩人自らが役者として演じる慣例を破り、その伝統自体を廃止した。さらには、コロス(合唱隊) の数を15人にまで増員したのも彼の発想であるとされる。古代ギリシャ悲劇の手法として、一行の科白を2人以上で分割して語る「割り科白」の手法を「アンティラバイ」と呼ぶが、宮城聰演出『アンティゴネ』は、言ってみれば究極のアンティラバイを演じて見せたことになる──時には、3~8名もの“スピーカー”の輻輳する声が、1人の“ムーバー”の語りを構成し、ムーバー/スピーカー制を採るSPACの真髄が発揮されているのだから。こうした事実を本稿の冒頭で確認しておいたのは、次の疑問を鮮明に認識しておくためである──宮城版『アンティゴネ』はまさに、詩人/演者から分離せしめられた「声」の増幅を志向したソポクレスの意図を明確に踏襲することに成功している。しかし、これだけだろうか?そんなはずはない、これだけではないはずだ、──と。 宮城が、詩人自身の意図をも超え、濃縮したかたちで表現することを目指した工夫が、他にも潜んでいるはずだ。──多くの魅力的な演出がほどこされている本作だが、この劇評ではその中でも、アンティゴネのたった1つの動作に注目したい。その所作こそは、決定的に宮城版『アンティゴネ』がソポクレスの凌駕に成功している演出であると考えられるからだ。それは何か?
 ヘーゲルが「全ての時代を通じて最も崇高で、あらゆる点で最も卓越した芸術作品の1つ」であると『アンティゴネ』を激賞したことは、よく知られている(『美学講義』、『宗教哲学講義』)。 どの部分に、彼は最も魅入られたのか? 観劇後のわれわれには、そのシーンを特定することは容易である。それは、今回の上演でも傑出して演じられていたアンティゴネと王クレオンの対決シーンである。このシーンに、ヘーゲルは「国家の法」と「自然の法(家族愛)」 の対立を重ねて見たのだった。劇中では、約10分をかけ、捉えられ王の前に引き出された当初は、打ちひしがれて力無く地面にうずくまっていたアンティゴネが、徐々にその顔を、身体を起こし、──おそらくは秒速数ミリ程度の緩慢さで──ゆっくりと立ち上がり、最終的には常人の為せる体屈角度の限界にまで仰けに反り返り、その姿勢を数分に渡り維持する。観客は、背後の壁面に増幅される「影」の振動により、彼女が怒りに打ち震えていることを知る。圧巻のこのシーンが、重低音の律動に満ちたアップビートのBGMに載せて、印象的に演じられる。いや、左記の表現では、彼女のした動作の描写として、まだ不足である──身体の自然な作動域を遥かに超えているため、一般動詞と形容詞では描写しきれないこの動作を、なんと呼べばいいのだろうか? われわれは、こう呼んでおこう──このときアンティゴネは、<過剰に>天を仰ぎ見ていたのだ、と。──だが、それにしても、なぜ彼女はこのような異様でありながらも聴衆の目を惹きつけてやまない、魅惑的な動作へと駆られたのだろうか?それによってしか表現できないものとは、何だろうか?
 彼女の動作を、つぶさに見て行こう。すぐに気づくことは、「宮城版『アンティゴネ』は、動かない」──ということだ。彼女は、劇中、たった3つの動作しかしていない。(妹と王に)問うこと、(兄を)葬送すること、そして<過剰に>天を仰ぎ見ること──である。
 その「動かない」彼女が、決然と天を仰ぎ見たのが王との問答のシーンなのであった。とすれば、われわれが掲げた問いへの答えは簡単に得られる・・・かに見える。クレオンに眼差しを据え、身を起こし屹立するアンティゴネの所作は、クレオンの布告した「人の法」への服従ではなく、それへの「挑戦」──まさに平伏することと対照的な動作として──解釈することができるだろう。だがしかし、謎はここで、解決するどころか深まっている。アンティゴネの<過剰に>天を仰ぎ見るという所作は、言ってみれば、クレオンに対する反抗としては、過剰なのだ。どういう意味か? 「人の法」の体現者である王たるクレオンへの対峙は、起き上がること、王の顔を見据えること、絶対君主たる王を問い糾すこと、ここまでで充分だったはずだ。それを超えて<過剰>に天を仰ぎ見るということは、他に、反抗の対象があるのだと考えるしかあるまい。それは何か? 天に象徴される神と「神の法」そのものであろう。
 宮城版『アンティゴネ』が示唆する、この洞察は衝撃的だ。従来の西洋文学史では、アンティゴネは「神の法」の擁護者として理解されてきたからだ。だが、人の法をも上回るものとして措定されたはずの神の法それ自体への「挑戦」を彼女が体現するとき、オルタナティブとして彼女が推しているのは、なんなのか? われわれは、すでに「それ」を知っている。劇中で、「それ」は示されている。 彼女の台詞を引こう。「私は憎しみ合うようには生まれついておりません。愛し合うよう、生まれついているのです」──彼女がこう言うのを聞いた時、私たちはある既視感に囚われる──地上に送り込まれ、究極の愛としての「隣人愛」を説き続け、アンティゴネと同じく憎悪を向けられ刑死した、まさにキリストのような形象を、我々は想起するのである。
 刑死の瞬間、キリストがした動作はなんだったか? ──共観福音書がおしえることによれば、それは──「エリ・エリ・レマサバクタニ」と神を呪詛しながら──天を仰ぎ見ることであった。思い返すと良い。アンティゴネの父は、脚(プース) が腫れて(オイデイン) いたためにオイディプスと名づけられ、物語の果てには、失明したのだった。刮目しつつ立ち上がり(=脚)、<過剰に>天を仰ぎ見るこの時(=眼)、アンティゴネは──脚と眼の不具を乗り越えるというかたちで──オイディプスを弁証法的に乗り越えてもいる。父を超えること、つまり、オイディプス性を真逆のベクトルに屈曲させ克服した表現として、<過剰に>天を仰ぎ見ることが定位されているのだ。アンティゴネは、父=神を、このとき克服している。
 宮城版演出によるアンティゴネの魅惑的かつふしぎな動作は、ゆえに、次の点を鮮やかに浮き上がらせることに成功していることになる。<過剰に>天を仰ぎ見ているこの時、アンティゴネは、500年ほど早く地上に受肉したキリストである──と。 そして、この先行して地上に投じられたキリストとしてのアンティゴネは、父=神を超えつつあったことも、この<過剰に>天を仰ぎ見るという動作によって示唆されているのだ。 事実、彼女の刑死に立ち会ったわれわれには、終劇後にふしぎな「原罪」を負ったような感覚と、深い衝撃が残るではないか。