劇評講座

2022年8月31日

秋→春のシーズン2021-2022■入選■【綾の鼓】小田透さん

カテゴリー: 2021

生きる哀しみの歓び

「今では私はもう演じるとか、歌うとか、踊るとかいうんじゃなくて、ただ舞台上にいて、生きようと思っているんですよね」とは言うが、笈田ヨシは舞台の上で依然として演じ、依然として歌い、依然として踊る。オリーブのカーゴパンツにベージュのワークコートをはおった老掃除夫の身体はしょぼくれている。背骨は曲がり、ガニ股。動きはぎこちない。まるで生きていることを恥じるかのように、とぼとぼと不器用に歩く。しかし、こわばった彼の肉体の内では熱い想いがたぎっている。

しなやかに躍動する伊藤郁女の演じるダンサーはそれと対照的だ。彼女の身体はやわらかくのびやかで、関節は可動域いっぱいに曲がるかと思えば、遠くまで大きく伸びる。指の先の先まで意識が行き届いた自由闊達さが、傲慢なまでの存在感を放つ。しかし、熱量が全身に充ちているのとは裏腹に、発せられる言葉は冷めている。

自らの妖艶さを知る冷淡な誘惑者である彼女は、サロメというより、ヘロディアスに近いかもしれない。そして掃除夫にしても、自身の願望充足のために権力を濫用するヘロデ王ではない。だから『Le Tambour de soie 綾の鼓』は、無自覚な少女の魅惑に狂う愚かな中年の身勝手な物語ではない。身分違いの恋をした男が死して女を恨む話だけではないし、自らの誘惑がもたらした死を女が悔いる話だけでもない。たしかにふたりの情念はすれちがい、絡み合うとしてもほんの一時のことだけで、それが起こるのはこの世ならざる死の領域でのことだけかもしれない。しかし、だとしても、伊藤が言うように、「もう年を取ってきたと感じる女性と、まだ若いと感じている年配の男性とのあいだで、なにかが引き継がれていく」。

『Le Tambour de soie 綾の鼓』は、笈田の親友にして、ピーター・ブルック演出作品の脚本執筆をしていたジャン=クロード・カリエールの手がけたテクストであり、三島由紀夫の「綾の鼓」が下敷きになっている。笈田は三島の『近代能楽集』から60年経った今、自らの試みを「モダン能」と呼んでいるが、それは的を射ているだろう。ここでは言葉と身体と音楽が、明示的な意味を超えたところで融合する。 言葉が単独で存立するのではなく、身体と共立する。それどころか、言葉は身体表現の一部となる。そして激しく打ち込まれる非旋律的な打楽器の強いパトスは、踊る身体に寄り添いながら、同時に、肉体の運動をリードし、それを加速させ、凝縮させる。

三島の『綾の鼓』にしても、その元となる能楽の『綾鼓』にしても、救われない物語だ。三島は、怨霊としてあらわれた男が鼓を鳴らそうして100回は試したあげくついには諦めてしまったことを惜しむかのように、女に、「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」と言わせることで、ふたりが結ばれえた可能性を開きはしたものの、その成就体が演じられる余白は残さなかった。カリエールの『Le Tambour de soie 綾の鼓』でも、ふたりが結ばれて終わるわけではない。しかし、にもかかわらず、そこでは、掃除夫とダンサーのあいだで交換されるものがある。言葉であり、踊りであり、身体に託された想い。

最後に男がひとり、ラジカセを床に置き、そこから流れてくるポップな曲をバックに、キスをするように唇を突き出しながら、モップを彼女に見立ててひとりデュエットを始める。コミカルでもあれば、滑稽でもある。哀れに見えてもおかしくないところだ。しかし、ラジカセから流れる音楽がサラウンディングに拡散し、不思議な多幸感が劇場全体を包み込む。激しい旋回をともなう伊藤の踊りは、しなやかにダイナミックな身体によって陰影を帯びた情念を表出する動のパフォーマンスであり、コンテンポラリーダンスにつらなるものだったが、笈田の最後のパフォーマンスは、舞踏のようなものだったのかもしれない。

そのとき彼は、老いた掃除夫を演じてはいたが、キャラクターとしてだけではなく、この舞台で生起した出来事のすべてを引き受ける存在として、静かに幸せに舞っていた。表情の痙攣が、無限のニュアンスをまとい、ぎこちなさをとどめたままの肉体が作り出す姿が、表現のための手段を超えた何かに、圧倒的な幸福感を放出するものへと転化していった。それは、生きる哀しみのなかにある歓びの表出であった。そしてそのような存在のあり方こそ、ただ舞台上にいて生きる、ということであったのだと思う。