『夢と錯乱』という儀式
重く静まる劇場に、計算され尽くした肉体が現れた。メモも取れない緊張感が劇場を包む。気配はこの世のものとは思えず、たった一人の「その者」が持つ圧力によって金縛りに遭ったようだった。暗い山奥に鎮座する舞台芸術公園そのものが取り巻くオーラと役者の支配力が掛け算され、ここは死後の世界かと見紛うほどだ。しかし、その中でも観客は舞台上の生命力に共鳴し、生きとし生けるものの言葉として正面から受け取った。
“夕暮れに 父は老人となった、暗い部屋部屋で 母の顔は石となり 少年の上に堕落した種族の呪いが のしかかった。”
この詩は、トラークルの内側で起こる欲望の自制や諦観と、外側の社会に起因する生き辛さが彼自身にも区別がつかない様子で混沌と現れる。彼は決して過去の異端児ではない。現代の私たちが生き辛さを感じる瞬間と何度も呼応する。例えば、戦争の惨劇を目の当たりにしたショックでピストル自殺を図るエピソードは、学校や会社などの狭い世界で攻撃され続けた末、自ら命を断つ若者の姿に重なる。妹への禁忌の愛情は現代の同性愛者を巡る抗争を想起させ、彼の深い孤独と自暴自棄な半生は、コロナ禍でますます加速した近所付き合いの希薄化、それに伴う孤独死のリスク増加などが頭にちらつく。
これを絶望の詩として上演してしまったら、観客に死への救済を与えてしまったかもしれない。しかし、私はむしろ彼の生き様に希望を感じ取った。それは美加理と宮城聰が立ち上げた新たなトラークルの像によるものであり、美加理の身体が持つ生のエネルギーが呼び起こしたものでもある。
残念ながら私は2018年にクロード・レジが演出した『夢と錯乱』は拝見できなかったが、大男が演じていて怖かったと知り合いに聞いた。再演において、レジが構築した作品のイメージを打破し、美加理をキャスティングしたことに敬意を払いたい。私は、彼女が最初に声を発するまでは男性に見えていた。しかしその後の場面で、私が座っていた上手最前の近くを彼女が通った時、魔女的な美しさと強い瞳に惹かれた。そのギャップは彼女が履いていたブーツのように、陰影を濃く表した。
彼女の歩行には雑味がない。一定のスピードで、眼で一点だけを捉え、ブーツの音だけが一面に響く。彼女は常にニュートラルな状態だ。その状態からトラークルの生霊が憑依し、特異な身体へと変貌する。「奇なる身体の彼女とそれを観察する私たち」という上演時間そのものが、トラークルの魂を蘇生させる儀式の役割を果たしている。最小限の舞台セットの中、ウッドチップのような茶色の粉が大量に撒かれるのは爽快で、彼女の身体の痕跡、蘇生の過程を克明に記録していた。
宮城聰が亡きクロード・レジへの追悼の意、オマージュの結果として蘇生に拘ったのだとしたら非常に趣深い。会場で配布された「劇場文化 夢と錯乱」に掲載されている宮城さんの言葉から察するに、レジはトラークルの持続可能でない生の傾きに興味を持っていた。そんな彼は、きっと純粋な魂の蘇生を目指しただろう。そして今回もまた、蘇生に成功していた。
私たちの目の前でトラークルが蘇生されたことにより、孤独や葛藤を持つ「現代のトラークルたち」は、心情を芸術で昇華していく姿を見てなんらかの救済が得られたのではないか。自分たちの悩みは光の当たらない場所で腐っていくのではなく、この舞台の上で、詩人と役者の力を借りて輝くのだ。その後、トラークルのようにその葛藤が自身を蝕んだとしても、この瞬間に葛藤していた自分は確かに存在し、芸術を通してこの瞬間を命より長く遺した人がいる。その事実が、現代に生きるトラークルたちへの救済である。
私はこの劇を観てからしばらくして、中村朝子訳『トラークル全集』の中から「夢と錯乱」を読んだ。詩に合わせて口を動かしてみる。書いてある通りに文節の間を取り、かつての詩人を頭に蘇らせながら重く難解な言葉をなんとか噛み砕こうとする。この作業を美加理もしていたのかもしれない。そう思い至って、ようやく彼女も私と同じ世界にいることが理解できたのである。私が目撃した彼女は、トラークルの代弁者であり、現代のトラークルの代表であり、「夢と錯乱」と名のついた彼の蘇生儀式の最重要人物だった。